カテケージス in skype

*「カトリック教会のカテキズム」という言葉を略し、「CCC」と表記します。

*聖書とCCC引用文は、あなたがたの聖書と日本語のCCCを参照してください。

 

初回 カテケージス

<信仰を知るために>メインテーマ:「われは一、聖、普遍、使徒継承の教会を信じる」

「教会(La chiesa)を信じる」:この「La」という冠詞の概念を理解することは、とても重要です。私たちは、信じます。それは、イエズスを信じるよう私たちに勧める人を信用するからです。しかし、私たちに信じるよう勧める人たちすべてが信仰をもって生きているわけではありません。信仰を失ってしまったり、イエズスが使徒たちに教えたことと違うことを教えているキリスト信者や司祭たちもいるのです。だから、カテキズムに「in chiesa教会において」ではなく、「la chiesa教会を」信じると書かれているのです。

私たちは、弱く、罪人である男女たちからなる教会において信じるのではなく、一、聖、普遍、使徒継承の教会を信じなければいけません。そのため、たとえ教会のなかに罪人がいても、教会は聖であるのです。なぜなら、教会は神によって建てられ、導かれているからです。教会は、イエズスが望まれたものであり、真の信仰のうちに生きるキリスト信者たちの心において常に聖であり、生きています。

イエズスは、決して彼の教会と彼の弟子たち、時々ご自分から離れてしまう私たち人間を見捨てられることはありません。教会を信じるということは、それがイエズスによって建てられ、聖霊によって支えられていることを信じることを意味します。私たちがミサに与る時、もし司祭が信仰を失っていたとしても、教会が唱えるミサを挙げるならば、そのミサは有効であり、たとえ司祭がうわの空や不信仰、または最悪、罪の状態にあって司式したとしても、聖体拝領の際に主は居られます。これは極端な状況ではありますが、「教会において」ではなく、「教会を」信じるということ、また、司祭という人をではなく、教会の秘跡の一つである「司祭職」を信じるということを理解させてくれます。教会は、人ではなく神に由来するものなのです。

CCC748,749,750,811,812番を何度か読むこと。

なかでもより重要なのは、750番です。

<信仰を生きるために> 霊的テーマ:「神のみ旨を行うこと」

1、 私たちは、ふつう生活やイエズスの教えを通して神のみ旨を知ります。イエズスもまた父である神のみ旨を行いました。

「私を遣わされたお方のみ旨を行い、そのみ業を果たすことが私の食べ物である」(ヨハネ4,34

「父よ、み旨ならば、この杯を私から遠ざけてください。しかし、私の意のままにではなく、あなたのみ旨のままに」(ルカ22,42

「イエズスは答えられた。『なぜ私を捜したのですか。私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか』」(ルカ2,49

2、 イエズスは、使徒たちや弟子たちに愛のおきてを教えられました。

「私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと、これが私のおきてである」(ヨハネ15,12

「私はあなたたちにあたらしいおきてを与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう」(ヨハネ13,34-35

「さてそれでは、この話を聞いている人々に言おう。あなたたちは敵を愛し、自分を憎む人に善を行い、・・・」(ルカ6,27-36

「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9,23

3、 これらの教えは、イエズスが私たちに教えられたことを今日も教えてくださっている教皇ベネディクト16世を通して、教会を通してもたらされています。信仰を知り、信仰を生きる受洗したすべての人たちは、イエズスの証人であり、弟子です。私たちは、イエズスの教えに生きるすべてのカトリック信者たちと一致して、教皇のために祈り、彼の教えに従い、彼との霊的一致のうちに生きなければいけません。そしてまた、私たちは、今生きている人たちにおいてだけではなく、天国にいるキリスト教の兄弟、聖人たちとも霊的な一致のうちに生きなければいけないのです。

(煉国で)私たちのために祈っている今は亡きキリスト教の兄弟たちのために祈りましょう。しかし、私たちは天使や聖人たちのためには祈りません。それは、彼らにはその必要がないからです。私たちが天使や聖人たちに祈るのは、彼らが私たちのために主に祈ってくれるよう頼むためなのです。聖母に祈りましょう。彼女は、(栄えの第5玄義において祈り、黙想するとおり)すべての天使と聖人たちの元后なのです。

4、 イエズスは私たちに(弟子たちは聖霊降臨の時に、そして私たちは堅信によって)彼の霊を送られました。その霊とは聖霊です。聖霊は、私たちをイエズスの望まれるキリスト信者にしてくださいます。聖霊は私たちを聖人にしてくださいます。聖人になるということは、すべてにおいて神のみ旨を行うことを意味します。すべてにおいてとは、たとえ私たちがそれをしたくない時でもということです。もし、私たちが心から神のみ旨を行うことを望むなら、神の霊は私たちの弱さを助けに来てくださいます。神のみ旨を行うことにおいて聖霊が私たちを導き、インスピレーションを与えてくださるよう、たくさん聖霊に祈りましょう。

5、 私たちが、日々、特別な状況において、具体的なことに神のみ旨を探し求める時、何が神のみ旨であるかを知るにはどうしたらいいでしょうか。間違えずに、主や聖母が私に望んでおられる特別なことを確かめるにはどのようにしたらいいのでしょうか。

第2回 カテケージス

<信仰を知るために> メインテーマ:「一なる教会を信じる」

「教会は様々な理由や意味から一である。」

1、 一である。なぜなら、それはもともとこの世がまだ造られる前に、唯一の神、三位一体(御父、御子、聖霊)によって望まれ、考えられたものだからです。それは、歴史的に、イエズス(人となられた神のみ言葉)によって創られ、ただ一つの霊的な体において私たちに一致する神の愛、聖霊によって生命を与えられています。

2、 一つでありながら、異なった賜物、様々な民族や文化、姿において多様性、多重性を持っています。教会において人々が持っている任務、もしくは役割は様々です。三位一体は、神のペルソナという多重性においてただ唯一の神であり、三位一体の神秘の象徴ゆえに、私たちは多重性において一つなのです。

・教会には、一般信徒、修道士、司祭たちがいます。

・司祭は男性だけです。それはイエズスが12人の男性使徒を選んだからです。

・聖母は、イエズスの御母ですが、またすべてのキリスト信者と使徒たちの母でもあります。

・キリスト信者は、結婚を通して生涯をイエズスとともに生きることができます。

・その他は、特別に誰かを愛するということなく、すべての人をもっと愛するようにさせる神の愛、このより大きな愛のために、夫や妻、自分の子供を愛するということを放棄(辞退)し、使徒たちや聖マリアのようにイエズスに従うよう招かれています。

・家庭において、様々なキリスト教的生き方があるように、聖職者においても、彼らの間で多くの異なった生き方があります。

・世の中で生きている在俗の修道士、修道女たちがいます。地域社会で生活するもの、一人で生活するもの、宣教に行くもの、孤独のうちに祈るもの、貧しい人々のために生きるもの、病院のなかで働く司祭、修道院のなかで暮らすもの、教区で働く司祭、大きな共同体のなかで共同生活をするもの・・・、まだまだ新古たくさんの聖霊に照らされた生き方のかたちがあります。

・これらの異なったかたちは、同じ源泉と同じ目的によって結ばれています。

私たちはみな、個々の方法で聖人になるよう神から呼ばれています。私たちは、主が私たちのためにお考えになった道はどれなのかを尋ねなければいけません。神が私たちのために十分考えてくださったことを、自由に選ぶのは私たちです。主に対し「いいえ」というのキリスト信者もたくさんいますし、他にも「はい」といって、あとで気が変わる人もいます。しかしまた、主をとても愛し、自分と他の人のために永遠の命という報酬を得ながら、主の助けによって永遠に忠実な人たちもいます。これは、聖職者の生活においてよりも、結婚生活においてあることでしょう・・・しかし、大切なのは、神のみ旨を行うことを望むことなのです。

3、 今日の「教会」をよりよく理解するためには、教会の歴史を知る必要があります。少なくとも、教会の幾世紀にわたるその発展と困難の重要な時期について知ることは必要です。3つの異なったキリスト教信条(プロテスタント、正教会、カトリック・・・)が存在するという分裂のために今日も対面している困難、また、公式な分裂というかたちで公にはされていないが、カトリック教会のなかに存在している数々の分裂について理解するためにもです。

4、 簡単には説明できませんが、知るべきことについての主な概要を書きます。

1、使徒継承の(初代)教父たちと最初の殉教者たちの時代

2、教会の教父たちと最初の7つの公会議の時代

3、修道生活の発展の時代

4、東洋のシスマ(教会分裂)と現在の結果(正教会との分離)

5、「托鉢」とよばれる修道会による刷新の時代

6、教会分裂とプロテスタントの宗教改革、そしてトレント公会議によるカトリックの反宗教改革

7、新しい在俗修道会と世界宣教の近世の時期

8、第一バチカン公会議と第二バチカン公会議、そして(伝統的、近代的)解釈の対立

9、今日のカトリックの危機とカトリック的信仰の一致によるキリスト教一致に向けての歩み

10、日本におけるキリスト教の起源と歴史

読む箇所

CCC 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822

(重要813814815816番)

聖書 弟子になるようにとの召集(マテオ10,36)(ローマ6,1-11)(1コリント7,25-39

一致において歩むこと(ヨハネ17,23

結婚による一致(マルコ10,1-12

永遠の命のために結婚を越えて愛すること(ルカ20,34-35

<信仰を生きるために> 霊的テーマ:「神のみ旨に自分の意志を一致させる」

私たちは、初回カテケージスにおいて、イエズスも神の御子でありながら、その人間性は、すべてにおいて御父である神のみ旨に完全に一致するよう努めておられたことを理解しました。これは、私たちにも同じ道を教えるために、そうなさったのです。

神のみ旨を知ることを追求するには、様々な方法があります(聖イグナチオ・ロヨラ、アシジの聖フランシスコ、聖ベネディクト)。カトリック教会の霊性においてよりシンプルでより知られていると思われる方法を、私の個人的な経験も踏まえてあなたがたに教えたいと思います。

1、最も重要なのは、可能な限り秘跡に与り、カトリックの信仰をよく生きることです。

2、たくさん祈ること、しかしそれ以上に良く祈ること。つまり自分自身によってではなくイエズスによって愛に満ちた心をもって祈ること。

3、具体的に愛に生きること

それは、すべてを無償で愛することを望むことであり、たとえすべての人と友達になることができなくても、イエズスは私たちに、敵や私たちのことをよく思わない人たちをも愛するよう求めておられます。

4、より重大で貴重なこととして、謙遜を追求すること

最も聖なる方であり最も単純で謙遜であった聖母の謙遜さを模倣すること。聖母の謙遜さは、隠れていながら活動的なものです。

落胆することなく、侮辱を受け入れること

私たちの弱みに対する侮辱、また私たちを理解していない人、愛していない人たちからくる侮辱を受入れること。そしてイエズスと聖マリアとともに信仰においてすべてを分かち合うこと。私たちは、決して一人ではなく、常に神の愛に支えられています。すべてを定め、すべてをおできになる神を前に、謙遜とは・・・わずかな行いさえも、エゴによって悪くしてしまう私たちは、まったく無に等しいものです。

5、愛すること、そして心と思いの清さと純潔のうちに生きること。霊的呼吸を重苦しくさせるようなおしゃべりや友好関係を避けること。エゴによって自己の満足感を求めることなく、霊的清さによってすべての人を愛することを願うこと。

この5つの規則をよく生きるために、霊的父親を持つことは、「より強いギアの車を持つ」ようなものだと理解してください。

神が自分に望んでおられることを具体的に判断し、見分けようとする時、私たちの利己的な考えや悪魔の悪いインスピレーションにだまされる可能性があります。たとえ、祈り、神のみ旨を行いたいと思っていても、私たちは時々混乱し、なにを選ぶことが正しいのかわからなくなります。霊的父親というのは、助言を求めるためだけでなく、一人の司祭を通して、またイエズスを探し求める他のキリスト信者を通してイエズスへの従順を示すために必要なのです。大きな利点は、私たちが決定し行うことにおいて、確実に利己心や高慢によってそれをしないようすることです。なぜなら私たち自身よりも、まず霊的父親の判断と助言に従うからです。実際、霊的父親を持つということがどんな意味を持っているのかを知ることは大切です。それは、自分たちが選択せずに誰かに依存するということではなく、司祭を通して最後のことばをイエズスにゆだねることを意味します。私たちが、信仰を持ってこれを生きるなら、私たちを保証してくださるのはイエズスご自身であり、たとえ司祭がなんらかの間違い(信仰と道徳に関わる間違いを除く。信仰と道徳に関わる場合は、よい霊的父親ではなく、代える必要があります。)をしたとしても、イエズスは私たちを見捨てることはありません。霊的息子や娘と霊的父親の関係において働かれるのは聖霊です。私たちが、御子イエズスに一致して生きる時、霊的父親は、父である神のみ旨を私たちに知らせるための聖霊の媒体なのです。

1、神のみ旨を知り、それに従うために自分自身を放棄することを確かにするための一つの霊的手段である。

2、霊的父親が、イエズスへの信頼のうちに、理解してよい助言ができるように、霊的息子・娘は彼に心を開くことが必要である。

3、霊的息子・娘は、霊的父親に、信頼して従順をゆだねなければならない。

4、霊的父親は、何かについて従順義務を与える前に、自分が導く霊魂にとって何が最善であるかをイエズスに尋ねるために、たくさん祈りらなければならない。

5、霊的父親は、道徳や信仰の問いに関して、教会が教えていることを教えなければならない。

6、もし、霊的父親が共感できないこと言う時は、常にそれを話し、自分の考えや動機を伝える必要がある。しかし、それでも父親が自分の意志を捨てるように求め続けるなら、従う必要がある。(信仰に関して悪いことや間違ったことを求めるのでなければ・・・。もしそうであれば、この場合は従う必要はなく、真理を伝える必要がある。また、必要があれば、よく祈った後に霊的父親を代えること。)

7、霊的父親がいつも聖霊に照らされるように、彼のために祈る必要がある。

8、イエズスに従うために、霊的父親に従うこと。

9、霊的従順は、心を自由にさせます。なぜなら、霊的父親は神のお望みになることを考えるからです。この霊的関係に生きている信仰は、聖霊の働きを自由にさせます。もし父親が間違えるなら(間違えることもあり得ます!)、イエズスは間違えに気づかせてくださいますし、霊的息子・娘が、霊的父親の人間的意志ではなく、イエズスのみ旨にならうために従うなら、決して間違えることはないでしょう。

10、すべてにおいて誠実に心を開き、信頼を持って祈り、真の霊的従順によってこの霊的指導をよく生きるなら、悪魔は、イエズスを探し求め、イエズスの愛のために喜んで自分自身を放棄するその霊魂をだますことができません。

第3回 カテケージス

<信仰を知るために> メインテーマ:「聖なる教会を信じる」

教会は、聖である。それは、聖霊が住まわれ、聖霊によって導かれているからです。このため教会は、神のみ言葉(新約聖書)を告げ知らせることと、7つの秘跡によって、世界中の人々を聖化する仕事を行なっています。カトリック教会を通してのみ、完全に聖なるものになることができます。なぜなら、完全なる神聖、つまり至聖なる三位一体の第三のペルソナである聖霊がおられるからです。聖霊については、今度三位一体について話す時に、もっとよく話したいと思います。教会が生まれたのは聖霊降臨の時です。イエズスは、十字架において命を与え、復活される前に、使徒と弟子たちに聖霊を約束し、聖霊を受けるために彼らを準備されました。今日、私たちは、堅信の秘跡によって、聖霊の充満が与えられます。聖人とは、亡くなるまで聖霊に満たされ、導かれるままに生きた人たちをいいますが、聖である教会だけが(教会には、多くの不聖な人たちもいますが、それでも常に神の恩恵によってイエズスに一致し、聖霊に満たされた信者たちがいます。)、彼らを列聖することができます。これは、彼らが亡くなったあとに、真の司法裁判によって、また適切な証人と証拠によって発生するもので、列聖裁判と呼ばれています。 教皇は「聖なる父Santo Padre」「聖下Santita」と呼ばれています。なぜならイエズスの約束された聖ペトロの座は、常に聖であり、聖霊に導かれているからです。「私は言う。あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門もこれに勝てぬ」(マテオ16,18)。

すべてのキリスト信者は聖人になるよう呼ばれています。すべての人がキリスト信者になるように呼ばれています。聖なる教会は、人々に福音を告げ知らせ、特に秘跡によってキリスト信者たちを聖化する義務を持っています。

読む箇所

CCC 797, 798 799, 800, 801, 823, 824, 825, 826, 827, 828, 829.

(重要 CCC798, 823 824, 829番)

聖書  聖霊降臨(使徒行録2,1-13)

聖パウロ(ローマ8,5-30

聖ペトロ(1ペトロ1,13-25)(1ペトロ4,1-6

<信仰を生きるために> 霊的テーマ:「聖霊のうちに生きる」

私たちは、聖霊なしにキリスト教的生き方は不可能であることをすでに知っています。私たちは、神の霊にたくさん願い求めなければいけません。なぜなら、私たちの心の思いや感情を導かれるのは、聖霊だからです。聖霊は、ペルソナにおいて神の愛であり、実体のない純粋な霊であって、真の固有の神のペルソナです。受胎告知の時、真の神であり真の人であるイエズスを宿すために聖霊が処女マリアの胎内に入られました。私たちにとっても、聖霊によって霊的な意味でもう一度生まれることは必須です。私たちは肉体的には私たちの両親から生まれましたが、霊的には洗礼と堅信によって生まれました。ですから、私たちの心は、洗礼と堅信を生きなければいけません。これは、神の霊が、私たちのために愛と聖化の業を完成されるようおまかせすることを意味します。

実際、私たちは、神の愛である神の霊が生きて住まわれる神の家なのです。ですから、私たちはこの霊によって喜ぶため、神の愛によって喜ぶために、その愛に応えなければなりません。他のすべてのことは、別の場所に移されるべきです。聖霊は、私たちを永遠に生かし、イエズスのように生き返らせてくださいます。私たちが告解によって許しを求める時、罪を消してくださるのは聖霊であり、ミサの最中に、パンを主の御体に、ブドウ酒を主の御血に変えるためにお降りになるのもやはり聖霊です。また、聖霊は、私たちにおいて、悪魔である悪の霊を遠ざけてくださいます。

イエズスがなさったこと、成し遂げられたことすべてが、聖霊によって、私たちのうちに実現されなければいけません。

カトリック教会には、聖霊に祈るためにずっと使われてきたいくつかの古い祈りがあります。多分あなたがたも知っているでしょう。これは最も重要な祈りの一つです。

『ヴェニ クレアトル スピリトゥス創造主なる聖霊来たり給え

来たり給え、創造主にてまします聖霊よ、

しもべの霊魂を訪れ給い、

御身の造り給える胸を天の恵みもて満たし給え。

御身、慰め主、いと高き天主の賜物、

生ける泉、聖なる炎、愛に満てる、霊的注油よ。

御身こそ賜物として七つの形をもち給う、

御父のみ腕の働き、聖父の御約束のごとく、人を雄弁ならしめ給う。

御光もて五官を照らし、愛を心に注ぎ給え。

弱きわれを、御力もて常に強め給え。

敵を遠く防ぎ、われらに平安を与え、

われらを導きて、すぺての悪より逃れしめ給え。

御身によりて御父を知り、御子を知るを得しめ給え、

御父と御子より出ずる聖霊を、常に信ずるを得しめ給え。

御父にみ栄えあれ、死者のうちよりよみがえり給いし御子と、

慰め主にまします聖霊に、世々に栄えあらんことを。

アーメン。

第4回 カテケージス

<信仰を知るために> メインテーマ:「普遍の教会を信じる」

「カトリック」という言葉は、ギリシャ語からきており、「普遍」という意味をもっています。普遍というのは、すべての人のためにつくられ、すべての人によいということを意味します。

これは、例えるなら、世界中のすべての家の扉の錠に合うようつくられたひとつの鍵のようなもので、この鍵を「普遍の(ユニバーサル)」と呼ぶことができます。この「ユニバーサルキー(普遍の鍵)」は、カトリック教会であり、神の愛にすべての人の心の扉を開くものです。

神が人の心にお入りになられる時、聖霊が私たちに大きな喜びを与えてくださいます。これは、この世で体験する喜びとは比較にならない大きな喜びです。

次の二つの意味において、教会は普遍です。(教会自身の中と外に向けて・・・)

1、      普遍である。なぜなら、イエズスはご自分の「真理といのち」の中に完全に存在されるという意味から、教会の内には、イエズス・キリストが満ちておられるからです。

2、      普遍である。それは、教会が、すべての人に派遣されたものであり、神がイエズス・キリストによって私たちに贈られた人類の救いの「道」であるからです。

カトリック(普遍)教会という意味をよく理解するために、いくつかの質問をしてみましょう。

1、      誰が、カトリック教会に入るよう招かれているのでしょうか?(CCC836

すべての時代の、すべての国の男性女性たちが、洗礼を受け、カトリック教会に属するように招かれています。(天国にいく)霊魂と(復活する)肉体の救いはイエズス・キリストから来るものです。イエズスは神であり、人類を救うために人となられ、十字架の犠牲によって御自分が罪を背負われました。どんな宗教も救いをもたらすことはできません。イエズスこそが、この世の唯一の救い主なのです。

2、      誰がカトリック教会に属しているのでしょうか?(CCC837

それは、カトリック教会において、洗礼によってその信仰とおきて、秘跡のすべてを受入れ、教皇に従う者です。教会に完全に属するということは、心の同意(一致)も必要であり、救われるために、教会が教えることをただ外面的に受け入れるだけでは十分ではありません。外面的には教会のなかにいても、内面的には教会の教え(信仰と道徳に関する重要な内容において)に心から反対の意志をもつ者は、実際はカトリック教会に一致していないのです。

3、      教会は「救いの普遍的(カトリック的)秘跡」であるとは、どういう意味でしょうか?(CCC849

「秘跡」は、イエズスの人類の救いのための有効なしるしと行為を意味します。

教会は、神なる御父によって望まれ、イエズスによって建てられ、聖霊に導かれています。教会は、秘跡を行うことによって至聖なる三位一体が働かれるただ一つの偉大な「生きた体」です。

4、      なぜ教会の召命は宣教なのでしょうか?

教会に入る者は、永遠の救いのためのすべての手段(秘跡、教え、共同体、教皇によって示される教会の一致など)の充満を受けます。誰も与えることのできないこのような偉大な賜物は、すべての人が、すでにこの世において、また完全に亡くなってから永遠のいのちと肉体の復活によって、救いの喜びを見いだすために、私たちを証しへと強く押し動かすのです。

読む箇所

CCC 830番から856

聖書 (マテオ28,19-20)(1ティモテオ2,4)(2コリント5,14)

<信仰を生きるために> 霊的テーマ:「聖霊によって宣教者となる」

宣教者であるとは、イエズスについて語りながら他の人々を自分に導くのではなく、すべての人々を福音へと導くことを意味します。私たちは、誰ひとり人類の救い主ではなく、ただイエズスのみが、真の唯一の救い主なのです。私たちは、すべてを謙遜に、祈りのうちに行わなければいけません。

キリスト教的いのちの普遍性を生きるために、固有の文化を純化することは、道であり、真理であり、いのちであるイエズス・キリストの弟子になるということです。例えば、大事なのは、それぞれの文化(イタリア、日本、フランス、アフリカなど)において、イエズスが望んでおられないような事柄を純化するということです。私はイタリア人として、キリスト教的でない、またイタリア人へのより深い福音伝導を難しくしている多くの事柄をあげることができます。イエズスのみことばにしたがい、イエズスの内によりよく生きるために、日本文化で純化されるべきところはどのようなところでしょうか。考えてみてください。ある日本人が世界中に福音を伝えようとする時(これは、すべてのキリスト信者にいえます)、固有の日本文化(たとえそれが際立って、よい特徴をもっていたとしても)を伝えるべきではなく、霊的に私たちに一致しておられる聖霊によって、福音の「普遍性」を伝えていかなければいけないのです。

聖霊は、家や家庭、仕事など私たちの出会いの場、そしてまた主がお呼びになる所どこへでも赴く宣教者になるよう私たちを促しています。これはつまり、全世界において宣教師となるということで、これをラテン語で「missio ad gentes(すべての人々への宣教)」といいます。カトリック信者であるということは、聖霊によって世界中に福音の真理といのちを伝える使徒になるということであり、これは、イエズスが私たち一人ひとりに望まれていることです。

第5回カテケージス

<信仰を知るために>メインテーマ:「使徒継承の教会を信じる」

使徒継承の教会(CCC857-865番)

1、             「使徒継承の」、なぜなら、イエズスが、すべてを捨てて従うよう使徒たちを招き、彼らの上に最初のキリスト教共同体である教会の土台を据えられたからです。教会は、使徒の上に建てられました。そして、イエズスは使徒たちを世界中に派遣されます。

2、             「使徒継承の」、なぜなら、教会は使徒たちの教えを伝えているからです。その教えとは使徒たちがイエズスから受けたものです。聖霊はこの使命において教会を助け、教会のうちに住まわれます。

3、             使徒の後継者たちとは、教皇が聖ペトロの後継者であるように、司教たちです。今日まで決して途切れることのなかったこの使徒継承は、こうして世の終わりまで、神のおぼしめしと力によって続くでしょう。教会は、教え、聖化し、導き続けます。叙階の秘跡は、使徒職のための秘跡です。イエズスから使徒たちに託された役務は、今日、この叙階の秘跡を通して教会で行なわれています。(CCC1533-1589

聖体と使徒継承の教会

1、             イエズスは、使徒たちとともに聖木曜日に聖体を制定されました。聖体の秘跡は使徒たちの上に創設されたのです。

2、             イエズスは使徒たちに、「これを私の記念として行ないなさい」と言われます。聖体の神秘の祭儀は、イエズスのご命令に従う使徒の伝承によって伝えられています。

3、             聖体の秘跡は、使徒たちによって、また叙階の秘跡を通して彼らの後継者たちによって有効に挙行されています。

処女聖マリアと使徒継承の教会

1、             処女聖マリアは、ガリラヤのカナで、しもべたちに「イエズスのいわれるとおりになさい。」と言い、イエズスを指し示しています。このしもべたちは、イエズスのいわれることを行なう使徒たちのことも象徴しています。聖母は、使徒たちのわきに控えていながらも、彼らの元后です。なぜなら、聖母は、私たちの主、使徒たちの師であり創設者であるイエズス・キリストを私たちに贈られるお方だからです。

2、             教会の母である聖母は、使徒たちを導き、また私たちを使徒たちへと導かれます。聖母は、ご自分の御子私たちの主がそう望まれたように、使徒たちとその教えに耳を傾けるよう私たちに教えておられるのです。

3、             イエズスは、聖母に叙階の秘跡を望まれませんでした。聖母は、ことばやただその模範によって教えるのではなく、なにより、天に上げられた処女なる神の御母であることによって、教えておられます。つまり、聖マリアは、教会に「マリアの教義」を教えているのです。しかし、聖母は使徒たちの長ではなく、彼女は、使徒たちの創造者であり天と地の主であるイエズスの御母で、また原罪をもたないキリスト信者、完全な弟子でありながら、使徒たちの慎ましいしもべなのです。

<信仰を生きるために> 霊的テーマ:「使徒的教会において信仰を生きる」

    使徒たちによって教えられた信仰を告げ知らせ、証しすること。

    教皇と教会(たとえ、それが人間によって、彼らの欠点によってなるものであっても)を愛すること。

    イエズスに耳を傾け、そのみ旨を行なうために、心をイエズスに一致すること。使徒たちのように、神のみ旨に対する一致の心をもたないなら、使徒になることはできません。私たちは、イエズスの真の弟子になる必要があるのです。

ドン・クラウディオ・ベラルディ

—————————————–

ゆるしの秘跡 CCC1420-1498

ゆるしの秘跡は、私たちが受けた最初の秘跡である洗礼の日へ私たちを引き戻してくれます。

洗礼によって、原罪と洗礼以前に犯した罪はすでにすべて許されています。

私たちキリスト信者は、秘跡(特にゆるしと聖体の秘跡)に与りながら、一歩一歩神に近づいて行かなければいけません。

神に許しを願う方法はいろいろあります。

例えば、

良心の糾明による痛悔の祈り

ミサ中の回心の祈り

謙遜にゆるしを願う個人的な祈り

では、「ゆるしの秘跡」とは何でしょうか。

ゆるしの秘跡は、イエズスご自身が定められたものです。(ヨハネ20,19–29

イエズスは、復活の後、弟子たちの前に現れました。イエズスを裏切った弟子たちは、怯えていましたが、イエズスが、「あなたたちに平和」と言われ、その手と脇を見せられた時、弟子たちは喜びました。なぜなら、イエズスは、何よりもまず「あなたたちに平和」と言って、彼らを許されたからです。裏切った弟子たちに対し、イエズスは、十字架上でご自分をお捧げになり、その苦しみによって彼らのすべての罪を無償で許されました。

イエズスは手と脇を見せられました。それは、彼ら自身がイエズスに負わせたこれらの傷を見せることによって、彼らに痛悔させるためでした。弟子たちは、喜びました。それは、罪が許されたからです。罪を痛悔し、ゆるされた時、そこにあるのは喜びだけであり、悲しみはありません。

イエズスは、「聖霊を受けよ。」と言って弟子たちに息を吹きかけられました。そして、弟子たちにすべての人の罪をゆるすことのできる権能をお与えになったのです「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」。

比喩的に表現するならば、「ゆるしの秘跡は、喜びの源泉のようなもの」です。私たちの痛悔が、大地を砕き、そこから神の賜物である喜びが噴き出します。

イエズスからゆるしていただいた喜び。これは、弟子たちが得た喜びと同じ喜びです。

私たちは、告解に行く時、犯した罪に対する苦しみと神に許されるという喜びをもっています。しかし、悲しみはありません。

神は、私たちが願う以上に、大きな喜びを与えて下さいます。

私たちは、神の賜物であるゆるしの秘跡にたびたび与ることによって、(良心の)目が開かれ、今まで見えなかったものが見えるようになり、小さな罪も見極めることができるようになります。

ドン・ボスコは少年たちに、大罪を犯していなくてもしばしば告解をさせていました。これによって、神は本人が気づかないこともわからせて下さり、私たちは、より完全に神にゆるしを願うことができるようになります。

ゆるしの秘跡は、次の5つの要素があります。

良心の糾明 犯した罪の告白 ゆるしを願う行為、真の痛悔(例:悔い改めのいのり)赦免を受けること、(秘跡的)償い

これらは、すべて重要ですが、なかでも「罪の告白」、「真の痛悔」、「赦免」の3つはゆるしの秘跡の本質的要素であり、これらが欠けるなら、ゆるしの秘跡は有効ではありません。

自分自身について糾明すること

天主の十戒、七つの罪源に照らして糾明すること。また自分の欠点、弱さについても調べること。真の痛悔はここからすでに始まっています。

罪を告白する。

心の中ですでに糾明し、痛悔したすべての罪を、イエズス・キリストの前、弟子である司祭の前、教会の前で告白する必要があります。心の糾明したことを事細かに長々と話す必要はありませんが、単純にすべてを告白しなければいけません。故意に忘れたわけではない罪は、すべて許されます。大罪を持っている場合は、まず初めに告白しなければいけません。常に大きな罪から告白しはじめ、順に小さなものを告白します。

告白したことに対して、「それは罪ではない」と指摘する司祭がいたとしても、自分自身が罪であると感じ、告白したいと思うものは、すべて告白した方がいいでしょう。小さなものが、いずれ大きな罪を生むきっかけとなるかもしれないため。(しかし、このために司祭と言い争う必要はありません。)

罪を痛悔する。

痛悔には、完全な痛悔と不完全な痛悔があります。

・完全な痛悔とは、自分がイエズスに対して背いたことを痛悔すること。

・不完全な痛悔とは、自分に対して後悔すること。「自分は罪を犯したくなかったのに、犯してしまった」と悲しんだり、がっかりすること。

司祭による赦免

私たちは、これが真にイエズスから来るものであることを信じ、信頼をもって受けなければいけません。

償い

罪がゆるされた後も、罪から生じた損害は残っており、それを償う必要があります。

償いの内容は、聴罪司祭が決めます。昔は、より重いもの(7日間の断食や数年間肉を食べない・・・など)でしたが、今は天使祝詞1回などとなっています。司祭が与える償いは、犯した罪に見合ったものでなければなりません(例えば、中絶の罪の場合、誰かを養子にしたり、貧しい子どもたちへ寄付をすることなどによって償うことが求められる)。

Q償いを与えない司祭がいるが、どのようにしたらよいか。

A司祭がただ忘れているのなら聞いてみてもよいが、敢えてそうしているのであれば、私たちが自分に必要と感じる償いをしてもよい。

司祭は告解上の守秘義務を持っています。もしそれを破った場合は、自動的に教会から破門となります。

同じように、破門に値する罪があります。それは中絶(母親の生命が危険な場合を除く)とご聖体に対する冒涜の罪です。これらの罪に対しては、当地の司教のみがゆるしを与えることができます。また中でも、いくつかの罪は、教皇のみにかぎられるものがあります(教皇はローマの司教であり、またカトリック教会の長でもある。異端やシスマ(教会分裂)に関する罪の場合は、教皇のみがゆるしを与えることができる)。但し、回心者が死に瀕している場合は、司祭もゆるしを与えることができます。信者は、回心者が死に瀕している場合、洗礼を授けることはできますが、罪のゆるしを与えることはできません。

聴罪司祭は、回心者が痛悔もなく罪を告白し、再び同じ罪を犯すことが明らかな場合、罪のゆるしを与えることはできません。

教会のおきてによれば、少なくとも年に一回(ご復活の頃)の告白が義務づけられています。ドン・ボスコが特に大切にしていたものは、「聖性」、「ご聖体」、そして「ゆるしの秘跡」であり、彼は、少年たちに週に一度のゆるしの秘跡を勧めていました。きれいな心でご聖体を拝領するため、そして霊的に成長していくために、ドン・クラウディオは23週間毎(少なくとも月一回)にこの秘跡に与ることを勧めます。

Q中絶に対する神の裁きは、どのようなものか。

Aこれから生まれ来るべき胎児の命を殺めることは、大人の殺人よりも、大変重い罪である。私たちにはわからないが、神はあわれみであるから、第三者に強要されたり決められて中絶した人たち(両親や夫など他者から強要されて中絶した場合、大罪を犯したことにはならない。そこには完全な責任と中絶する意志が不足しているため。)、また、若さゆえの無知から、中絶の意味を理解していない人たちに対して、それぞれの状況を考慮された裁きがあることは確かである。責任と中絶の罪は、女性に中絶を強要した男性にもある。

Q告解場に罪を書き留めたメモを持参することはよいことか?

A間違ったことではないが、これを持参することによって、書かれた罪をただ読むだけになっては意味がない。神の前にもっとも大切なことは、痛悔したことをすべて忘れずに告白できるかを心配するのではなく、そこにおられる神に心を向け、信頼をもって、(真の痛悔をもって)心から告白することに専念することである。

20091010日(土)