キリスト教的希望

キリスト教的希望の確かさ

キリスト者は、神のみことばに希望をもっています。みことばには神のすべての約束が含まれています。「みことば(Verbo)」は、黙ったままの死んだも同然のことばでいることなく、受肉されました。私たちの希望は幻覚に基づくものではありません。私たちは、私たちを失望させることのない生きたみことばに希望を置いているのです。なぜなら、それは復活され、父なる神の右の座に上がられたイエス・キリストにおいてすでに実現しているからです。

「キリスト教の信仰によれば、『あがない』、すなわち救いは、ただ与えられているだけではありません。私たちにあがないが与えられるというのは、私たちに希望、すなわち信頼することのできる希望が与えられているということです。この希望の力(徳)によって、私たちは現在に立ち向かうことができます」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』1

私たちは、この未来の希望を認識することによって、たとえどんなことが起ころうと愛されていると感じるのです。私たちは信頼しています。なぜなら私たちの希望は裏切ることがないからです。私のいのちにおける主の存在は、今日、永遠の主の存在によって強固になります。

「神は、何度もいろいろな方法で、その昔預言者を通じて先祖に語られたが、この終わりの日々には、子を万物の世継ぎとして定め、また、よってもって万物を創られたその子を通じて語られた。神の栄光の輝き、神の本性の型である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪の清めを行って、高き所にある神の威光の座の右に座られた」(ヘブライ1,1-3

希望は、現在の中に永遠のいのちという未来を引き寄せ、期待する事実の何かを今すでに私たちに与えてくれます。このことから、イエスへの信仰は、希望する事柄の本質であると断言できます。なぜなら、私たちは、すでに存在しているもの、聖なる神の霊をとおして私たちの内に生きて働いておられる方に希望を置いているからです。

「兄弟たちよ、私たちの喜びは、まだ事実上の現実ではなく、希望における喜びである。しかしながら、私たちの希望はこのように、まるですでに現実になったかのようなものである。事実、私たちは、何の恐れももっていない。なぜなら、約束されたお方が真理であるからであり、真理は欺かれることも欺くこともできないからである。したがって、真理にしがみつくことはよいことである。真理は、そのみことばの内にとどまるなら、私たちを自由にするからである。私たちは、今、現に信じており、将来それを見るであろう。信じる時とは、現世における希望の時であり、見る時とは、永遠における現実の時、つまり私たちが『私たちを創られ、あがなわれた方』を直接見るであろう時...」(聖アウグスティヌスCommento ai salmi, 123.2 )

私たちキリスト者にとって、希望とは具体的に体験されるものであり、現在を和らげるために先に逃げる逃避ではなく、現実のいのちを愛をもって抱きしめる力です。私たちの心に存在する確固とした未来の永遠の実在に、磁石のように引き寄せられるのです。

偽りの希望

古代より、大きなイデオロギーから日常の小さな盲目的崇拝まで人間が自ら築いた偽りの希望が無数にあります。偽りの希望は、長く続く幸せな個人的、社会的生活を示しながら、私たちの問題を永遠に解決できると自負しています。

「世界の道徳的な繁栄は、社会構造だけで保障できるものではありません。たとえ社会構造がどれほどよいものであってもです。(・・・)人間はいつも自由であり続けます。また人間の自由はもろいものでもあります。そのため、善の支配を決定的な形でこの世に実現することは決してできません。よりよい世界が決定的な形で永遠に続くと約束する人は皆、偽りの約束をしています。その人は人間の自由を無視しているからです。私たちは善のために自由をいつもあらためて獲得しなければなりません。(・・・)世界の決定的なすなわち、よい状態をずっと保障できる社会構造が存在するとすれば、それは人間の自由を否定することになります。したがって、そのような社会構造は決してよいものだといえません」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』24

偽りの希望を提示する思想の型は多岐にわたります。それは、史的唯物論、消費の自由化、個人の好みに合わせてつくられた私的な宗教、優生学まで進化論者の進歩と考える科学への信仰、啓蒙主義者や実証主義者の理性による絶対的信仰などです。また、輪廻転生からなるカースト制度も偽りの希望といえます。すべての人が神への服従を強いられている神権政治の社会によって、不信心者たちを殺せば、あわれみ深い神が永遠のほうびをくださるという偽りの希望を示しているのです。

「この世にならわず、かえって神のみ旨は何か、神のみ前に、善いこと、嘉(よみ)せられること、完全なことは何かをわきまえ知るために、考え方を改めて自分を変えよ」(ローマ12,2

人間の偽りの希望について話すためには難しいことばを使わなければなりませんでしたが、この新約(上記引用文)についてはシンプルなことばを使うことができます。これは、唯一の希望の所有者であり、ゆえにそれを私たちに与えることのできるお方に希望を託し、回心するよう私たちを招いています。

「『主よ、私の神よ。私はあなたに希望を置く。私を救いたまえ!』(詩編7,2)とは、まるでだれもが全く率直にいえるような単純なことのようであるが、そうではないだろう。人に希望をかけ、権力や富、また多くの者からすばらしいと思われている事柄など何らかの世俗的な現実にそそられる者は、『主よ、私は・・・希望を置く』とはいえないからである。事実、権力者たちに希望をかけるなと命じる教えがある。『呪われよ、人間に希望を置くものは』。神の外に何も崇拝すべきものはないのだから、神なる主に対するもの以外のすべてのことに希望をかけてはならない。『主は、私の希望、私の賛美の歌』」(聖大バジリオOmelie sui salmi, 7.2

私たちキリスト者にとって、唯一の希望は神から来るものであり、それは、イエス・キリストのうちに明かに示されています。

希望の表明としての祈り

祈りは、希望の表明であり、またそれ以上に、表明による希望といえます。祈る人は神にゆだね、神の助けとみことば、そして約束に信頼します。神の方を向き、私たちの生活やさまざまなできごとにおいて神が介入され、私たちにはどうすることもできない部分(人間的にいえば、あらゆる希望が失われたときも)を神が助けてくださるように求めるのです。事実、もう誰からも聞いてもらえないとき、私たちに耳を傾けてくださっているのは神だけです。神は私たちのために、そして私たちとともにおられます。それによって、私たちはどんな状況においても、神の助けに信頼して祈ることができるのです。教皇ベネディクト16世がグェン・ヴァン・トゥアン枢機卿の生涯について言及されているように、このようにして祈りは希望を生み出す要素となるのです。

「投獄での十三年間、まったく絶望的に思われる状況の中で、神に耳を傾け、神と語ることができることが、ヴァン・トゥアン枢機卿の希望の力を強めました。この希望の力によって、ヴァン・トゥアン枢機卿は、釈放後、世界中の人々に対して希望の証人となることができました。この偉大な希望は、孤独の夜の中でも消えることがないからです」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』32

他の方法によっても、祈りは希望につながっています。私たちは、祈りの内に、自分が真に待ち望んでいるものは何であるかを確認し、それによって私たちの意向をより神のみ旨に一致した純粋なものになるよう、正すことを学ぶことができます。

「私たちは祈りの中で、何をほんとうに神に求めることができるか、すなわち、何が神にふさわしいことかを学ばなければなりません。私たちは、他人に敵対しながら祈ることができないことを学ばなければなりません。私たちは、今このときに欲しい、表面的な快適さを祈り求めることができないことを学ばなければなりません。このような謝った小さな望みは、私たちを神から遠ざけるからです」(ベネディクト16世『希望による救い』33

私たちは、物質的な善だけを考え神に求めていませんか。自分のためだけに願っていませんか。もし、賛美や感謝に心を開かず、「あなたのみ旨が行われますように」といっていないなら、また、私たちの祈りの視野が現世のいのちを越えていないなら、間違いなく、私たちの希望は清められる必要があります。そして、私たちの心は、神との完全な一致という最も偉大な善を願うことを学ぶため、神の賜物に場所を空け、何とかして「拡がる」必要があります。

「熱心に憧れ(希望す)ることによって訓練されるのがこの世の私たちの人生であります。そうした聖なる憧れが私たちを訓練しそれが身につけばつくほど、私たちは私たちの憧れをこの世への愛から断ち切ることができるのであります。(・・・)あなたは良きもので満たされ、悪しきものを外に注ぎ出すべきであります。神はあなたが蜂蜜で満たされることを望んでおられると考えなさい。なのに、もしあなたが酢で満たされているとすれば、蜂蜜を何処に入れたらよいでしょうか。その容器が運んでいたものは外に注ぎ出さなければなりません。それにその容器そのものが清められきれいにされていなければなりません。器は、たとえ労働や脱穀によって擦れていても、どんなものにも適合するようにきれいに清められていなければなりません。(・・・)かれが来られるとき、かれが私たちを満たしてくださるように、かれに向かって、私たちを大きく拡げようではありませんか。それは『御子が現われるとき、私たちは御子に似たものとなる』ためであります」(聖アウグスティヌス「ヨハネの手紙一講解説教」4,6 『アウグスティヌス著作集』より)

復活の希望

復活のイエスは、私たちの希望です。それはなぜでしょうか。どのようにして私たちの希望となったのでしょうか。イエスは、私たちと同じように生活されました。誘惑にあい、十字架の苦しみを受け、他の人々と同じように亡くなりました。イエスは、決して罪を犯すことなく、誘惑に勝ち、苦痛や十字架を避けず、死を前にして逃げ出しませんでした。復活するであろうことを知っておられましたが、真の人性においては「見捨てられた気持ち」を体験されたのです。イエスは、私たちに復活の希望を与えるために最初に復活されました。

「イエスを死者からよみがえらせたお方の霊があなたたちに住むなら、キリスト・イエスを死者からよみがえらせたお方は、あなたたちに住む霊によってその死の体をも生かしてくださる」(ローマ8,11

復活における希望は、教会の教父たちの間で目下の話題でした。特に、聖アウグスティヌスは、412年アフリカ、カルタゴでの説教で、キリストの死と復活は私たちの希望の土台であることを明かにしました。

「人類は死なねばならないことを知っていた。しかし、復活できることを知らなかった。それゆえ、恐れというものはもっていたが、希望することを知らなかった。だから、私たちを正すために死(原罪の後、神がアダムとエバに与えた)の恐怖を注がれたお方は、私たちに未来の永遠のいのちを考える復活の希望を与えるために、最初にイエス・キリストをよみがえらせた。キリストは、先に死んだ多くの者たちと同じく死に、最初に復活された。死ぬことによってすでに多くの者が負っていた運命を負われ、復活することによってご自分の前に誰も行ったことのないことを行われた。(・・・)私はもう一度はっきりといいたい『私が今までもっていなかった復活の希望をもつことができたのは、あなたが最初に復活されたからである。あなたが私を導くところへいつか私も行くだろうという希望をもつことができるように』」(聖アウグスティヌスCommento ai salmi, 90.2ss

今日、民衆が蜂起する中、聖アウグスティヌスの生き方について教皇ベネディクト16世がどのように書いているかを読んでみましょう。

「アウグスティヌスはあるところで自分の日常生活について次のように述べています。『騒がしい者を矯正し、気の弱い人を慰め、病気の人を支え、敵対する人を論駁し、邪悪な人に注意し、教育のない人を教え、怠惰な人を促し、争う人を鎮め、傲慢な人の気持ちを抑え、気落ちした人を励まし、対立する人を和解させ、困っている人を助け、抑圧された人を解放し、よい人を称賛し、悪い人をゆるし、(そればかりか)すべての人を愛さなければなりません』。(・・・)実際、アウグスチヌスがしようとしたのはこれでした。すなわち、ローマ帝国が深刻な困難に直面する中でこの困難はローマ帝国領アフリカにも深刻な脅威を与えていました。ローマ帝国領アフリカは実際にアウグスチヌスの生涯の終わりに破壊されます、希望を伝えることです。(・・・)アウグスチヌスは(・・・)いいます。キリストは『私たちのために執り成してくださる(・・・)。さもなければ私は、まったく望を失うことでしょう。ああ、私の負っている病は、数多く大きい。まことに、数多く大きい。しかしあなたの薬の力はそれよりももっと大きい。もしもみことばが肉となり、私たちの間に住みたまわなかったならば、みことばは人間との結びつきとははるかに縁遠いものと考えて、私たちは自分自身に絶望してしまったかもしれません』。アウグスチヌスは希望の力(徳)によって、民衆と自分の町ヒッポのために自分のすべてをささげました」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』29

希望に喜び 患難に耐え忍ぶ

私たちキリスト者は、人生の患難によって試みにあう時も、信じているものに希望します。忍耐の徳を要することですが、また忍耐には霊魂の強さが欠かせません。私たちは、希望するものに到達しそれを得るために、力強く、忍耐深くなくてはいけません。

「希望の喜びをもち、患難に耐え(る)」(ローマ12,12)。「神の光栄の勢力によって力を強められ、喜びをもってすべてに耐える忍耐と根気強さを得(る)」(コロサイ1,11)。「兄弟たちよ、主が来られるまで忍耐せよ。見よ、農夫は地の尊い実を秋と春の雨が来るまで忍耐して待つ」(ヤコボ5,7

待つことができること!しかし、それは、受け身であったり、動揺したり、落胆したり、時間を早めようと望んだりすることではありません。人生の四季の移り変わりを待った後よい実りを得ることのできる農夫は、主に喜ばれます。このような農夫になるため、みことばや秘跡、また個人的な祈りをとおして主から力をいただきながら待ち望むということです。私たちが、この世のいのちから永遠のいのちへと移るときは、すべてを捨て、私たちが希望していた実りを見いだすでしょう。

「親愛なる兄弟の皆さん、真理と自由を得る希望を与えられた私たちが、真理と自由そのものに達しうるためには、辛抱し、忍耐し続けなければなりません。なぜなら、私たちがキリスト者であるということそれ自体、信仰と希望にかかわることだからです。その希望と信仰とが実を結ぶためには忍耐が必要なのです」(聖チプリアノElogio della pazienza n.13

希望は、忍耐なしにはただのきれいなことばに過ぎません。具体的、内面的に生きていない希望は、失望へと導きます。なぜなら困難や対立を前に、力をもっていないためです。私たちは、イエスが私たちに約束してくださったことに希望をもっており、たとえ今、人生の苦難や試練をとおらなければならないとしても、この希望を得ることができると確信しています。

「忍耐強く試練を耐え忍びながら、待ち望むことができることそれが、信者が『約束されたものを受ける』(ヘブライ10,36)ことができるために必要です。(・・・)新約において、この神への期待、すなわち神に堅くとどまることは、新しい意味をもちます。神はキリストのうちにご自身を現しました。神はすでに来るべきことがらの『実体』を私たちに伝えました。こうして神への期待はあらためて確実なものとなりました。神への期待は、現在においてすでに与えられたことから見た、来るべきことがらへの期待です。神への期待とは、キリストの現存のうちに、ともにいてくださるキリストとともに、キリストのからだが完成し、キリストが決定的なしかたで来臨することを待ち望むことです。(・・・)真理を語ることは危険を伴うかもしれないからです。(・・・)恐れの霊によって人々から隠れるなら、『滅び』(ヘブライ10,39)を招きます。『神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです』(テモテ1,7)。テモテへの手紙は、このようなすばらしいことばでキリスト信者の根本的な態度の特徴を示します」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』9

慰めの霊は私たちの希望である

使徒たちの上に注がれた聖霊は、慰めの霊です。イエスは復活後、また使徒たちの裏切りの後、食堂で彼らに現われ、「あなたがたに平和」といって霊を注がれます。イエスは、彼らの後悔し恐れている心を慰める平和をお与えになりました。そして、聖霊は五旬祭(ペンテコステ)の時に降り、力と勇気と喜びを吹き込まれます。

「(・・・)その場所の戸はユダヤ人たちを恐れて閉じられていたのに、イエスが来られた。そして、彼らの中に立ち、『あなたたちに平和』といわれた。こういってその手と脇を見せられた。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまたいわれた、『あなたたちに平和。父が私を送られたように、私もあなたたちを送る』。そういいながら彼らに息を吹きかけて、『聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない』といわれた」(ヨハネ20,19-23)。

「五旬祭の日が来て彼らが一緒に集まっていると、(・・・)すると、彼らはみな聖霊に満たされ、霊の言わせるままにいろいろの国のことばで話し始めた」(使徒行録2,1-4)。

人間の心は罪を体験すると自分の内に閉ざされ、神にまなざしを向けることができなくなり、黙ってしまいます。そして、失望が優位に立つよう誘います。必要なのは、主に希望し、主のゆるしを必要としていることを自覚する謙遜さです。私たちは自分自身に希望をかけることはできないことを体験したのですから。

「(・・・)神にはすべてが可能である。事実、神はあわれな者を地から上げ、貧しい者をくずだめから引き上げ、君主たちとともに、民の高貴な者とともに座らせ、うまずめを家に座らせ、子らの幸せな母とされる。であるから、失望するな。たとえ悪魔があなたを徳のいただきから悪の深淵に突き落とすほど強かったとしても、神はよりいっそう強く、あなたを前の誠実さへ戻される。そればかりか、以前よりもっと聖とすることができる。だから、あなたは落胆するな。あらゆる希望を断ってはならない。悪者たちのように終わってはならない。実際、概して人を失望へ至らしめるのは、罪の量よりも、邪心をもつことによるからである」(聖ヨハネ・クリソストモA Teodoro, 1

失意の霊は、悪魔からきて、神のあわれみに希望しない者の心の中に根付きます。逆に慰めの霊は、痛悔した謙遜な心を聖化し、希望を起させ霊魂を強化します。ですから、私たちは、慰めではなく、慰めてくださる聖霊を求めましょう。そうすることによって、希望を得るでしょう。

「ラテン語の『慰め(consolatio)』ということばは、このことをよく表します。『慰め』とは、独りでいる人とともにいることです。こうしてその人はもはや独りではありません。(・・・)人となった真理と愛である神は、私たちのために、また私たちとともに苦しむことを望まれました。キリスト教の信仰はこのことを私たちに示したのです。クレルヴォーのベルナルドはすばらしい表現を造り出しました。『神は苦しむことのできないかたですが、ともに苦しむことのできないかたではありません』。(・・・)だからあらゆる苦しみは『慰め』で満たされます。『慰め』とは、ともに苦しんでくださる神の慰めです。こうして希望の星が上ります」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』38−39

希望の証人たち

キリスト教的希望の徳(力)は、より苦しく悲しい体験をするときも、平和や内的喜びを伴います。神を愛する人たちに用意されている至福の考えは、実際、単に日常的な苦しみだけを望み、耐えるようにさせるだけでなく、より高い徳の行いにまで押し動かすものです。

聖書のマカバイ書(下7章)は、母親とともに捕えられた七人の若い兄弟たちを思い出させます。彼らは、神の律法を犯すよう、残忍さと暴力によって王から強制されました。残虐に拷問され、体のあらゆる部分を切断され、最後には火で焼かれました。口では表せないほどの責め苦の中、彼らは互いに言い聞かせたのです。「神なる主が上からわれわれをながめ下ろし力づけてくださるにちがいない。」「ふたたび神のもとによみがえる希望のあるとき、人の手で殺されるのはむしろ望ましいことだ」

1597年、聖フランシスコ・ザビエルの宣教開始から30年後に、権力者たちは、イエズス会司祭のパウロ三木神父と25人のキリスト信者たちを捕え、ひどい侮辱と拷問を加えた後死刑をいい渡し、長崎の海辺で十字架にかけました。パウロ三木神父は、十字架上の「説教壇」を見上げ、神に殉教の賜物を感謝しました。そして大きな声でいいました。

「今、最後の時にあたって、私が真実を語ろうとすることを、皆さんは信じてくださると思います。キリシタンの道のほかに、救いの道がないことを、私はここに断言し、保証します。私は今、キリシタン宗門の教えるところに従って、太閤様はじめ、私の処刑に関係した人々をゆるします。私はこの人々に少しも恨みを抱いていません。ただせつに願うのは、太閤様をはじめ、すべての日本人が一日もはやくキリシタンになられることです」(dall’Ufficio delle Letture del 6 febbraio『日本二十六聖人殉教記』訳より)

教皇ベネディクト16世は、キリスト教的希望についての回勅で、ベトナムの殉教者パウロ・レ・バオ・ティン(1857年没)の手紙の一節を引用しています。ここには、信仰から来る希望の力によって苦しみが変化することが現わされています。

「まことに、この牢獄は永遠の地獄のかたどりです。足かせ、鉄の鎖、縄などのあらゆる種類の残酷な刑罰のほかに、ここには、憎悪、復讐、誹謗、下品なことば、つぶやき、悪行、不正の誓い、呪い、そして不安と悲しみがあります。しかし、かつて三人の若者を燃えさかる炉から救われた神は、いつも私のもとにおられ、私をこれらの苦難から救い、苦難を喜びに変えてくださいます。『神のいつくしみは永遠だからです』。普通、人々が怖がるこれらの苦痛のさなかにあって、神のめぐみに助けられて、私は喜びと歓喜に満ちあふれています。私は一人ではなく、キリストがともにいてくださるからです」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』37

今この時代、若者や家族は真の希望に生きる必要があります。今の世はキリスト教信仰に対して大きな困難や迫害を負わせようとしています。しかし、真の希望は、それを乗り越える力を与えることができるからです。ですから、今は困難な時であっても、同時に偉大な希望の時でもあるのです。

希望の理由を答える準備

復活されたキリストのいのちにあずかり、神を直に見るという希望は、他の人たちに謙遜と勇気をもって福音の真理を証したいという望みを心に満たします。何より神なしで「楽園」を創るよう提案し誘いながら、神を否定させ、個人や社会の生活から神を遠ざけようとする考えの風潮に、愛をもって異を唱えるようしむけます。対話の難しさや信仰の真理を軽蔑する人からの露骨な反対は、私たちを恐れさせるものであってはなりません。逆に、私たちの希望を他の人たちによりよく証しするために、知恵をもってよい機会を与えてくださる神に信頼することを知る必要があります。

「たとい正義のために苦しめられても、あなたたちは幸せである。彼らの脅しを恐れるな、戸惑うな。心の中で主キリストを聖なる者として扱い、あなたたちの内にある希望の理由を尋ねる人には、優しく、敬って常に答える準備をせよ。正しい良心をもつようにせよ、そうすればあなたたちがキリストにおいて行うよい行いをののしる人々は、自分がののしったことを恥じるであろう。また、善を行って苦しむことが神のみ旨なら、悪を行って苦しむよりもそのほうがよい」(1ペトロ3,14-17

教皇ベネディクト16世は、キリストの死と復活の真理について言及し、またこういわれました。

「この神秘は私たちの基盤であり、キリスト教の信仰の中心です。その神秘を軽視し、『愚かなもの』(1コリント1,23)と考える哲学者は皆、人間の心の奥底にある大いなる問いに対して自分には限界があることを知ります。(・・・)グロバリゼーションが進む現代において、世界中にキリスト教的希望をあかししてください。どんなに多くの人々が、その希望を待ち望んでいることでしょうか。(・・・)もし皆様が信じるなら、そして信仰を生き、日々あかしすることができるなら、皆様と同じような若者が、キリストとの出会いをとおしていのちの意味と喜びを見いだすのを少しでも助けることができるでしょう」(ベネディクト16世 2011年「世界青年の日」メッセージ35 カトリック中央協議会訳より)

キリストとの出会いは、他の経験とは全く比較できないものです。私たちも聖アウグスティヌスと同じように信仰と理性をもって力づよく証しましょう。

「すべてのものを造った方はすべてのものよりも善い。美しいものを造った方はすべてのものよりも美しい。強いものを造った方は一層強い。偉大なものを造った方は一層偉大である。神があなたにとって、あなたが愛した何でもとなるであろう。被造物において創造主を愛することを、そして造られたものにおいて造り主を愛することを学ぶがよい。それは神によって造られたものがあなたを保持しないためであり、また、その方によってあなた自身も造られたところの方をあなたが失わないためである」(聖アウグスティヌス「詩編注解」39『アウグスティヌス著作集』より)

希望は専念と努力を要する

キリスト教的希望は、幸運なできごとに基づくものではありません。私たちは、天国や永遠のいのちを、自分次第ではなくただ幸運によってたどり着くゴールとして期待しているのではありません。

「競技場の競争ではみなが走るが、賞を受けるのは一人だけであることを知らないのか。あなたたちも、賞を受けるために走れ。競技者はみな万事を控え慎む。それは朽ちる栄冠のためであるが、私たちは朽ちぬ栄冠のためである」(1コリント9,24-25

希望は、私たちがそこに到着するために、信仰と愛をもってどれだけ専念するかによって、また、それにともなう犠牲や努力によって私たちの中で成長し、形づくられ確かなものとなります。人生は、競技場のようなものです。すべての人が走っていて、自分の目標にたどり着くことを希望し努力しています。私たちキリスト者は、物質的財産を得るためや、信望や名誉ある社会的ポジションのために走っているのではありません。私たちは、あがない主から約束されたゴールにたどり着くという希望のうちに走り、努力しているのです。

「ここで、われわれもわずかなもの、はかないものをそれぞれ大きなもの、不滅のものと比較することができるように、この世のことどもに富んでいる者は、陸上競技者の場合を例にとり、上で述べたことを自分のこととして考えてみたまえ。富める者のうちある者は、勝てるということや栄冠を手中に収めることができるということに関して希望を失い、初めから競技に参加することすらしない。その一方である者は、考えの内では、上のような希望を抱きながら、適切な努力、鍛錬、適切な糧を身につけることをせず、栄冠を得ることができずに希望を失ってしまう。(・・・)けれどももし、なお鍛錬に励まずまた報償を目指して競技することもせず、戦わずまた汗を流すこともしないままでいる者は、(不死性という栄冠にあずかる希望はないと思いたまえ。)むしろ自らを鍛錬者であるみことばにさらし、審判者であるキリストの許に置きたまえ」(アレクサンドリアの聖クレメンス「救われる富者は誰か」2-4 『中世思想原典集成1 初期ギリシア教父』より)

霊的競技者のための食べ物と飲み物は、聖体拝領です。聖体拝領は、私たちの先を歩まれたトレーナーである主イエスの後に続くため、私たちの霊魂に力を与えます。私たちの日々のトレーニングに欠かせない体操課題は、信仰・希望・愛の行いに示されるよい心構えというオイルを用いた十戒の実践です。この訓練についての指導は、福音書、聖書から受けます。聖書は、教会によって解釈され、教え説かれています。教会は、教皇のことばやカテキズムに要約された教理をとおしてそれを教える任務をもっているからです。

「三世紀末(・・・)、真の哲学者としてのキリスト像が現われます。このキリストは、片手に福音書を、もう片方の手には、哲学者の持ち物である、旅行用の杖を携えていました。キリストは、杖によって死に打ち勝ちます。福音書は旅する哲学者たちが探し求めて見いだせなかった真理をもたらします。(・・・)この象徴のうちに、教養人と庶民がともにキリストのうちに見いだしたものをはっきりと認めることができます。キリストは私たちに、人間が本当にいかなるものであり、真の意味で人間となるために、人が何をなすべきかを語るのです。キリストは私たちに道を示します。そしてこの道が真理です。キリストご自身が道であり真理です。だからキリストは、私たち皆が探し求めるいのちでもあります。キリストは私たちに死を超えた道をも示します。このことができるのは、まことにいのちを教えるかたです」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』6

希望は救いの錨(いかり)

キリスト者の希望は、私たちの前に降ろされた錨のようなものです。私たちが波に連れ去られないようにしっかりとつかまることができます。この錨は、私たちを沈めるものではなく、神との深いきずなへと引き入れるものです。

「(それは)神のうちに逃げこんだ私たちに、賜った希望にしっかりつけという強い励ましを与えるためである。その希望は私たちの霊魂の安全な不動の錨であって、神殿の幕の内に入るのである」(ヘブライ6,19

この世の人生の荒波におけるキリスト者の希望を表現するため、教会の教父たちは、この船の錨のたとえをよく用いています。

「悪魔は、『神への希望』を断ち切るために、私たちを絶望感へと追いやる。それは、神への希望が、私たちのいのちの支え、安全の錨であり、また、私たちを天国へと導く道路の指標、迷った霊魂たちの救いだからである。実際『私たちは希望において救われた』といわれている。この希望は、私たちの霊魂を支える天から下ろされた金のロープのようなものであり、この人生の悪の嵐からのがれ、しっかりとつかまっている者たちを少しずつ頂上へと引き上げる。その間、もし誰かが弱り、聖なる錨を放してしまうなら、すぐに再び転落して溺れ、悪の深淵に沈んでしまう。悪魔は、このことをよく知っている。なぜなら、悪行の自覚で重くなっている私たちを見ているからである。そして、やって来ては鉛より重い絶望感を加えるのだ」(聖ヨハネ・クリソストモA Teodoro, 2

悪魔は神に逆らう被造物、人間の誘惑者として実在しています。しかし、悪魔は私たちの罪を犯す同意なしには何もできません。私たちの行いの責任者は、常に自分です。悪魔に罪をきせることはできません。人間の悪い面が悪魔であるという考えは、「マニ教の」間違いであり、カトリックの信仰や人間学とは一致しないものです。聖アウグスティヌスは、このことについて数多くの著作の中で明らかにしています。それでもやはり、悪魔は、キリスト者たちに大小さまざまな迫害をしかけてきます。しかし、希望は彼らを強固に保ちます。再度、ベトナムの殉教者の体験から、希望が心の錨として記述されている箇所を取り上げてみましょう。

「私はベトナムの殉教者パウロ・レ・バオ・ティン(1857年没)の手紙の一節を引用したいと思います。この手紙は、信仰から生まれる希望の力が苦しみを造り変えることを明かにします。『キリストのみ名のために牢につながれている私パウロは、日々耐え忍んでいる苦難をあなたがたにお伝えしたいと思います。あなたがたも、神への愛に燃えて、私とともに神を賛美するためです。<神のいつくしみは永遠だからです>(・・・)この嵐のさなかにあって、私の心の中の生ける希望である錨を、神の玉座に投じます。』(・・・)苦しみと拷問は恐ろしく、ほとんど耐えがたいものであり続けます。しかし、希望の光が上りました。希望の錨は神の玉座そのものに降ろされました」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』37

永遠のいのちへの希望

普通、私たちは、日々の生活において、主が私たちの人生の中に助けに来てくださることを期待しています。主は、「世の終わりまで(特に聖体の秘蹟と聖霊の働きをもって)私たちとともにおられる」と約束されました。しかし主はまた、復活され御父の右に上がられました。ですから、私たちも永遠に主のおそばにいるために復活し天国へ上ることを、今現在において願いましょう。

「今の時の苦しみは、私たちにおいて現われるであろう光栄とは比較にならないと思う。全被造物は切なるあこがれをもって神の子らの現れを待っている。(・・・)全被造物が今まで嘆きつつ陣痛の苦しみに会っていることを私たちは知っている。そればかりではなく、霊の初穂をもつ私たちも、心からのうめきをもって自分が養子とされ、自分の体があがなわれることを期待している。まことに私たちが救われたのは希望においてである。目に見える希望はもう希望ではない。見えるものをどうして希望することができよう。私たちがもしみえないものを希望しているのなら、忍耐をもってそれを期待しよう」(ローマ8,18-25

真の信仰に生きることによって、私たちの視野を広げましょう。そして永遠のいのちにたどり着くという澄みきった確信をもって期待しましょう。永遠のいのちとは、今のいのちの延長ではなく、新たないのちであり、そこでは、泣いたり苦しんだりすることはなく、ただ私たちがあこがれるあらゆる善が永遠に存在するのです。

「愛する者たちよ、私たちはいま神の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは神に似た者となることを知っている。私たちは神をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(1ヨハネ3,2-3

永遠のいのちはこれから来るものです。しかし、永遠のいのちへの希望は、日常の苦労や日々の大小さまざまな苦しみの中に、今現実にあるものです。

「あなたがたの希望を神に定着させなさい。永遠の富を願い、永遠に存在するものを待ち望みなさい。キリスト者である兄弟たちよ、私たちはキリスト者である。キリストは楽しむために肉体のうちに来られたのではない。だから、私たちは、今存在するものを愛するよりもがまんすべきなのだ」(聖アウグスティヌスSermoni 105,11

もし、永遠のいのちを信じて願い、現実から逃げずに掘削していくなら、いつか最終的に実現するであろう永遠の次元の内に入ることができます。その時は、あらゆる苦しみが喜びに変わるでしょう。そして、このことは今から私たちを喜ばせてくれます。

「では、この地上には何があるのか。苦労、抑圧、苦しみ、誘惑、他には何も望めないのか。それでは、喜びはどこにあるか。それは将来の希望のうちにある。だから使徒は「常に喜び」(2コリント6,10)といっている。これらすべての苦しみの中にあって、常に喜び、常に悲しむこと。常に喜びとは、彼自身がいうには「悲しみに沈む者のようであるが常に喜んでいる」(2コリント6,10参照)ことである。私たちの悲しみは「まるで悲しんでいないよう」であるが、私たちの喜びは「〜のよう」とはいわない。なぜなら、それは、希望において確かなものであるからだ」(聖アウグスティヌスCommento ai salmi 123,2