沈黙

沈黙のうちに、受肉の秘義を観想する

受肉の秘義とは、誕生です。つまり、聖霊の働きによって、(真の神が真の人となられた)イエズスが、聖マリアの処女の胎内にお生まれになったという秘義です。聖母はそのまなざしを、ご自分にではなく、イエズスの誕生と成長の秘義へ、そして彼に起こった事や彼を取り巻いていた物事へと向けておられます。聖母は皆に対して何の解説や説明も望まれず、他の人からの支持や確証も求めておられません。彼女は主の御母でありながら、沈黙し、傾聴し、心のなかで黙想して、幼子となられた神の愛、沈黙の内に幼子が「神と人の前に、その知恵も背丈も寵愛も(ルカ2,52参照)」増していかれる様を観想されるのです。

「天使は、マリアのところに来て、『あなたにあいさつします。恩寵に満ちたお方。主はあなたとともにおいでになります。』と言ったので、マリアはこれを聞いて心乱れ、何のあいさつだろうと考えていると、天使は言った。『恐れるな、マリア。あなたは神のみ前に恩寵を得た。あなたは身ごもって子を生む。その子をイエズスと名づけなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子と言われます。また、その子は主なる神によって父ダビドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない』」(ルカ1,28-33

「イエズスは彼らとともに下り、ナザレに帰って、二人に従って生活された。その母はこれらの記憶をみな心におさめておいた。そしてイエズスは、神と人の前に、その知恵も背丈も寵愛もますます増していかれるのだった」(ルカ2,51-52

私たちの人生に、イエズスがお入りになるということは、偉大な秘義です。そして、私たちは、このように聖なる偉大な恩恵に値しない小さな者です。そんな私たちが、どうしてすべてを知り、すべてを理解していると言えるでしょう。このように思いあがった心で、隣人に助言や説明などできるでしょうか。聖母は、無原罪であり、被造物のなかでもっとも聖なる方でありながら、沈黙されました。であるなら私たちは、このように偉大な秘義について、どのような心で語ることができるでしょう。私たちは、処女聖マリアに注目し、沈黙のうちに心のなかで、この受肉の秘義を黙想しましょう。

BEATA SEI TU MARIA しあわせな方マリア (シリアの聖エフレム)

マリア、あなたはしあわせな方

あなたの名は、あなたの御子のために偉大で、

ほめたたえられます

このように言うことができましょう

小さくなられた偉大な方が、あなたのうちに住まわれた

調べることなくすべてに感謝するあなたの口はしあわせ

探ることなくすべてをほめたたえるあなたの舌はしあわせ

もし彼をお生みになった母親が、尊敬に揺らぐなら

だれがその高みにふさわしいでしょう

ああ、男をしらない女性よ

あなたがお生みになった御子をどのように見つめましょう

あなた以外にだれも、彼の栄光の変化を仰ぎ見ることはできません

御子の昇天によって、火の舌は遣わされ、住まわれました。

すべての舌は警戒するように。

私たちの調べは藁(わら)であり、

炎は私たちの詮索を焼き尽くします。

聖エフレムの言葉は、私たちを信仰と感嘆のうちに、沈黙へと招くものです。沈黙は信仰を学ぶ「場」なのです。

聖母についての回勅で、ヨハネ・パウロ2世が書かれたことばが、これを説明しています。

「信仰によって、マリアは惜しみなく神に自らをゆだね、『主のはしためとして子とその働きに完全に自分をささげる』ことになりました。教父たちが教えているように、マリアは、御子を胎に宿す以前に、その心に、正確には信仰のうちに宿しました。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「救い主の母」13

「マリアは、この御子がまさに天使の告げたとおり『聖なるもの』で『神の子』であることを知っていました。イエズスがナザレの家で隠れた生活を送っていたこの長い年月の間、マリアも信仰のうちに『キリストとともに神のうちに隠された』生活を過ごしていました。なぜならば、信仰とは神の秘儀に接することですが、マリアは、神が人となられたという言い尽くしがたい秘儀に日ごろ絶えず接していました。(・・・)イエズスは、後に、『父よ、・・・あなたはこれらのことを知恵のある者や賢い人には隠し、小さい者に現わしてくださいました』と言うでしょうが、マリアは、その小さな者たちのなかの最初の人となりました。(・・・)しかし、この福音の始まりのなかにはある種の心の苦悩がみられます。それは、十字架の聖ヨハネの言葉を借りて言えば、『信仰の暗夜』が『とばり』のごとく広がっていて、それを通してしか、彼方におられる『見えざる御者』へと近づけず、秘儀に親しめないことです。マリアが長年御子の秘儀に親しみ、信仰の旅を進めたのはこのような状態のなかででした。そして、この間に、イエズスは『知恵も増し、ますます神と人とに愛された』のでした。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「救い主の母」17

沈黙のうちに見つめ、決心し、断ち切るために

私たちは、しばしば沈黙から逃げて、自分自身の外面的なことに目を向けることを好みます。時には、祈る時でも、たくさんの言葉で、沈黙を埋めてしまいます。私たちは、神のみことばのために、自分たちの言葉のスペースを空け渡たさなければいけません。神のみことばに耳を傾けることこそ、自分自身を知る鍵なのです。

「実に神のみ言葉は、生きているもの、行うものであり、両刃の剣よりも鋭いものであって、魂と霊、関節と骨髄を切り分けて通り、心の思考と考えを分けるほどのものである。被造物のうち一つとして神のみ前に隠れられるものはないのであって、私たちがいくつかさばきを受けねばならぬ神のみ前に、すべては明らかであり開かれている。」(ヘブライ4,12-13

聖人たちは、神のみことばを求め、知り、愛した人たちです。彼らは、良心によって自分自身を見つめ、神に喜ばれるために自分がどれだけ足りない者であるかを知り、神への勇気と信頼をもって、重荷や妨げとなっていたすべてのものを放棄したのです。

「一つの大きな家のなかを想像してみましょう。そこにはたくさんの物、容器、小包があふれています。そこへある二人の人が入っていきます。一人は、健康で鋭い視覚をもつ者、もう一人は、目の病気を患った者です。この後者の男は、もちろんすべてを見るには視力が悪すぎ、たとえタンスやベッド、テーブルなどがあっても、目に見えず、手に触れない物はすべて無いものと思うでしょう。逆に、前者は、その鋭いまなざしで、隠れた角までも見抜き、そこにとてもたくさんの物、数えきれないほど多くの細かいものまで見つけるでしょう。

まさしく聖人たちはこのように、「目の見える人」であり、言わば第一の長所は、彼らが、霊魂を見ることができない自分の曇ったまなざしを、自分自身のうちに鋭く察知し、それを強く非難しているということなのです。

彼らは、うわべの評価で良心の清さを曇らせることはありませんでした。彼らは、表面から見える小さなシミではなく、多くのシミに覆われた自分自身を見つめていたからです・・・。

さて、では私たちは、「目の見える人」たちからかけ離れています。それは私たちが、自分たちの内に重ねられたたくさんの小さなシミを見ずに、私たちの心を悲嘆に苦しめることで本来役に立つはずの「良心の呵責」というものに苛まれることもなく、うぬぼれというほのかな暗示に心動かされるのを嫌がらず、私たちの生温い未熟な祈りを嘆くことなく、祈りや聖歌の間、私たちの頭にうかぶ祈りとは関係ないことについてすべて罪と思わず、神の目から明らかであるとよくわかっていながらも、人前で言ったりしたりするには恥ずかしいようなことを、羞恥心もなく心の奥底に隠して平然としており、わいせつな空想の不潔さを熱い涙で清めようとせず、兄弟たちの必要な物を援助し、貧しい人々に食べ物を分け与える施しにおいて、貪欲が私たちの心を曇らせていることを嘆かず、そしてまた、神を忘れ、一時的、肉体的な現実に心を配ることが、自分にとって損害であると思わないからです。

(聖ヨハネス・カシアヌス 講話23,6-7

実り多い歩みをしていくうえで、私たちの良心は、善を見分け悪を退けるために必要なものですが、それだけでは十分でありません。しかし、神のみことばはそれだけで足りるものであり、私たちは、神のみことばを忠実に解釈するカトリック教会の教えに導かれる必要があるのです。

「良心は、究極の具体的な判断として自分に責任のある誤ちをするとき、その尊厳を損ないます。つまり、『真と善の追求を怠り、罪の習慣によって次第に良心がほとんど盲目になってしまった』ときにそうなるのです。イエスは次のように忠告して、良心が形を崩す危険を暗示しています。『体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたのなかにある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう』(マタイ6,22-23)。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「真理の輝き」63

「キリスト信者は、良心を形づくるために、教会とその教導権のなかに大きな助けをもっています。第ニバチカン公会議は、それを肯定してこう述べています。『キリスト信者は、自分の良心を形成するにあたって、教会の聖なる確実な教えに留意しなければならない。実際、カトリック教会は、キリストの意志によって真理の教師であり、その任務は、キリストである真理を告げ、正しく教え、同時に、人間性に基づく道徳の原理を自らの権威をもって宣言し、確証することにある』。(・・・)教会は、常にひたすら良心に仕えて、それが人間の偽りによって提示された風のように変わりやすいあらゆる教えによってあちこちに揺さぶられることを避けることができるよう助け、・・・」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「真理の輝き」64

沈黙のうちに十字架のもとに回心するために

「通りかかった人々は、あごを突き出してイエズスをののしり、『おい、神殿を壊して三日目で建てる男よ、十字架から下りて自分で自分を救え』と言った。司祭長、律法学士たちもともにあざけりを浴びせ、『他人を救っても自分を救えないのか。イスラエルの王キリストよ、いま十字架から下りよ。それを見たらわれわれも信じよう』と言い合った。ともに十字架につけられていた男たちもイエズスをののしっていた。昼過ぎから地上一帯が暗くなり、三時ごろになった。イエズスは、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と声高く叫ばれた。それは『私の神よ、私の神よ、なぜ私を見捨てられたのか』という意味である。近くに立っていたある人々はそれを聞いて、『ほら、エリアを呼んでいる』と言った。そのとき一人が海綿に酢を含ませて葦竹につけ、走り寄ってイエズスに飲ませ、『待て、エリアが来てあの男を下ろすかどうか見よう』と言った。そのときイエズスは声高く叫んで息絶えたもうた。」(マルコ15,29-37

「彼には、私たちの目をひくほどの美しさも輝きもなく、楽しめるほどの姿形もない。彼は、人から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみになれた人。その前では顔を覆いたくなる、そんな人のように、見下され、無視された人。実に、彼は私たちの労苦を背負い、私たちの苦しみを担った、私たちは、彼を神に罰せられた者、打ちのめされ、さげすまれた者と考えた。彼は、私たちの罪のためにつきさされ、悪のために押しつぶされ、私たちを救う罰が彼の上に襲いかかり、その傷のおかげで、私たちはいやされた。」(イザヤ53,2-5

恐れではなくイエズスの愛によって、沈黙のうちに十字架の足元にとどまりましょう。私たちもイエズスの愛に与り、沈黙のうちに、イエズスが私たち一人ひとりに用意された十字架を担いましょう。

「親愛なるみなさん、ご復活の祝祭を間近に、これに先立って行われる伝統的な断食が始まります。これは、40日という期間、霊魂と肉体の聖化に専念するために行われます。すべての祝祭の中で最も大きなこの祭日を祝うために、私たちは、キリストの受難と死をともにした生活態度をもって準備しなければなりません。福者使徒パウロが言うように、このキリストの復活によって私たちも復活したのです。『あなたたちは死んだ者であって、その命はキリストとともに神の中に隠されているからである。私たちの命であるキリストが現れる時、あなたたちも光栄のうちにキリストとともに現れるであろう』(コロサイ3,3-4)。私たちは、一度死なないなら、どうしてキリストとともに与ることができるでしょう?私たちが古い態度を脱ぎ捨てないなら、キリストの復活に、どうしてあやかれるでしょうか?(ローマ6,5-6) このことから、キリストのあがないの神秘を理解する者は、輝かしい徳をまとって婚宴に近づくために(マテオ22,9-12)は、肉による悪い習慣から解放され、罪の不潔さをすべて取り除く必要があることがわかるでしょう。(・・・)逆に、神の忍耐をないがしろにする人たち(ローマ2,4)は、自由な良心をもっていなくても、安心しています。なぜなら、長いこと罰を免れているからです。しかし、それは行いを改める時間として、ただ罰が先延ばしにされているだけなのです。(・・・)確かに、それを問われる理由はすべての人に同一ではありません。罪とそうでないもの、犯罪とそうでないものの間には、多数の事情や異なった重さの度合いによって違いがあるからです。しかしながら、信者である以上すべての人が、まったく罪のない完全な清らかさを目指すべきなのです。もし、『心の清い人は幸せである、彼らは神を見るであろう(マテオ5,8)』といわれた人たちの中に数えられたいと思うなら、良心の内面的な汚れ、霊魂のまなざしを曇らせるすべてのものを、より入念に排除できるように、あらゆる熱意と精力をもって努力しなければなりません。」

(聖大レオ説教「四旬節の断食」37,1-6)

イエズスの十字架の足元で、沈黙のうちに生きることによって、少なくとも2つの実りがあります。まず一つは、回心です。回心は、聖大レオが言うように、日常の内面的姿勢にとどまることであり、私たちは、いつも絶え間ない回心のうちに生きるべきです。もう一つは、ヨハネ・パウロ2世が私たちに教えられたように、霊魂の救いのために、イエズスの苦しみにともに与ることを望むことです。

「とにかくキリストは、ご自分の上に苦しみを負いながら、人間の苦しみの世界に近づかれました。公生活中に、疲れや、宿のないことや、ご自分に最も近い人々からの誤解を経験されただけでなく、何よりも孤立され、ご自分を死に追いやる憎悪に取り巻かれていました。キリストはこのことに気づいておられ、しばしば弟子たちに苦しみと死が、彼を待っていることを語りました。(・・・)キリストは、以上のようなことが成し遂げられなければならないという使命を十分に自覚しながら、ご受難と死に向って行きます。まさに、この苦しみの手段によってキリストは、人間が『滅びることなく、永遠のいのちを受けるため』に、それを実現させなければなりません。ご自分の十字架の手段によってキリストは、人間の歴史と、人間のこころの中に植えられた悪の根を絶やさなければなりません。まさに十字架の手段によって、キリストは、救済の業を達成せねばなりません。この業は、永遠の愛のプランの中で、贖いの性格を帯びています。」

(ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡 「苦しみのキリスト教的意味」4,16

私たちは皆、イエズスの苦しみに与るよう呼ばれています。それは、「人類が、死ではなく永遠の命を得るために」です。聖母が、その生涯において、十字架の足元で最高の苦しみに至るまでそうなさったように、私たちもそうするように招かれています。イエズスとともに、イエズスのために苦しむということは、沈黙を必要とします。苦しみを表し、共有するようなことばはありません。ことばによって十字架を愛することはできないのです!

聖霊に耳を傾ける

-沈黙のうちに、聖霊の息吹に従順に-

聖霊は、弟子たちの霊魂を力づけ、励ますために、イエズスが彼らに約束された賜です。 「私はあなたたちに真実を言う、私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去ればそれを送る。」(ヨハネ16,7)「火のような舌が現れ、分かれておのおのの上に止まった。すると、彼らはみな聖霊に満たされ、霊の言わせるままにいろいろの国のことばで話し始めた。」(使徒行録2,3-4

聖霊は、イエズスを信じない人たちや知らない人たちの前で、イエズスを証しするために、キリスト信者たちに勇気を与えるものです。霊の力によって証ししていくのが、カトリック教会であり、聖霊への従順さをもって神の愛にゆだねることによって、キリスト・イエズスにおける兄弟姉妹の一致、つまり教会が形成されるのです。

「こう祈り終えると、その集まっていた場所が揺らぎ、彼らはみな聖霊に満たされ、恐れなく神のみことばを語りだした。」(使徒行録4,31)「私たちはこのことの証人です。そして神がご自分に従う者に与えたもう聖霊もまたその証人です。」(使徒行録5,32

沈黙の祈りのうちに、神の愛は満ち、聖霊が私たちの弱さを助けに来られ、私たちの祈りを神のみ旨へと導かれます。

「霊も私たちを弱さから助ける。私たちは何をどういうふうに祈ってよいか知らぬが、霊は筆舌に尽くしがたいうめきをもって、私たちのために取り次いでくださる。そして心を探るお方は霊の意向を知りたもう。すなわち、霊は神のみ旨に従って聖徒のために取り次がれる。」(ローマ8,26-27

私たちの心のなかに感じるすべてのインスピレーションが神から来るものではありません。良いものと悪いものを見分けるための助言と助けを願う必要があります。

「愛するものよ、無差別に霊を信じるな。霊が神から出ているかどうかを試せ。多くの偽予言者が世に出たからである。」(1ヨハネ4,1

困難や迫害においても、聖霊に耳を傾けるために、自分の考えや判断を沈黙させるということ。これこそ、よいキリスト信者が、学ぶべきことです。

「人々があなたたちを会堂や上司や権威者の前に引いて行く時、あなたたちはどういうふうに弁明しようか、何を言おうかと心配することはない。その時に言うべきことを教えてくださるのは聖霊である。」(ルカ12,11-12

聖アウグスティヌスは、鳩の霊的な「呻き声」とからすの「鳴き声」についての違いを私たちに教えています。

「聖霊はわたしたちに呻くことを教えたもう。これは決して小さなことではない。なぜなら、聖霊はわたしたちが寄留の中にあることを示し、故国を望んであえぐべきことを教えられた。わたしたちはその熱望の中で呻く。この世でうまく行っている人、むしろうまく行っていると思う人、肉的なものの楽しみ、時間的なものの充満、そして空しい幸いに踊っている人は、からすの声を聞いているのだ。からすの声はやかましい叫びであって、嘆息ではない。これに対して、自分がこの死ぬべき世界の苦悩の中にいて、主から離れて寄留していること、約束された不滅の至福をまだ手にしておらず、希望においてもっていること、そして主が到来して、その顕現において明らかになる時に実際にもつだろうことを知っている人、しかし主はまず卑賤の中に隠された方として来られたことを知っている人、そのような人は呻いているのである。そしてこのことで呻くとき、彼は正しく呻いている。霊は彼に呻くことを教え、鳩によってそれを教えられた。多くの人は地上の不幸に遭って呻く。ものを失って打ちひしがれ、身体の病気にもだえ、牢獄に閉じ込められ、鎖でつながれ、海の大波にさらわれ、あるいは敵の策略にはまって呻く。しかしこうした呻きは鳩の呻きと一緒ではない。神の愛、霊による呻きではない。それゆえ、彼らは苦痛から解放される時は大声をあげて踊るが、そこにあるのはからすの叫びであって鳩の呻きではないのである。」                             (聖アウグスティヌス「ヨハネ福音者解説」6,2

ヨハネ・パウロ2世は、聖霊についての回勅を書かれました。これは、私たちみなが読み、知るべきものです。短い一節を取り上げてみましょう。ここでは、真の霊的いのちとは、聖霊において、また、カトリック教会において生きることであるということを私たちに教えています。

「復活と聖霊降臨の秘儀は、教会から告げ知らされ、教会によって実践されます。この教会こそ、実にイエス・キリストの復活についての使徒たちの証言を伝える際の証人であり、相続人です。それゆえ教会は、死に対する勝利の永久の証人です。この勝利は、聖霊の力を示すと同時に、聖霊の新しい到来、すなわち、人間と世界のただ中における聖霊の新たな現存の原因となりました。(・・・)また、キリストの復活の名において、教会は神自身から生じる生命に奉仕しますが、そこで教会は、聖霊に密接に結ばれたものとして謙遜に聖霊に従うのです。ところで、この奉仕の務めそのもののおかげで、人間は、たえず新たな仕方で『教会の道』となります。(・・・)霊に結ばれた教会は、内なる人間には何があるのか、人間においては、霊的であり、不滅であるという理由から何がもっとも親密で本質的なものであるか、ということを最大限に知っています。それで、霊は、『不死の根』を接ぎ木されますが、この根から新たな生命が生まれるのです。すなわち、この生命こそ人間が神のうちに生きるものであり、(・・・)使徒パウロは信じる人々のために神に祈ります。この信じる人にパウロはこう語っています。『こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。どうか、御父が、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださいますように。』この内なる『霊的な』人間は、聖霊の息吹によって成熟し強められます。(・・・)人間は、霊から流れ出る恵みのたまものによって、『新しい生命』に確実に入り、神的生命そのものの純粋な超自然的状態に導き入れられ、こうして『聖霊の住まい』、『神の生きた神殿』となるのです。なぜなら、聖霊をとおして御父と御子は人間のもとに来て、その人の中に住まいを設けるからです。三位一体との恵みの交わりにおいて、人間の『生命に関する空間』が広がり、この空間は、神的生命の超自然的段階へと高まっていきます。人間は神のうちに生き、神によって生きるのです。すなわち、『霊に従って』生き、『霊に属することを考える』のです。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「聖霊生命の与え主」58

聖マリアの活動的で愛にあふれた沈黙

聖母は、まったく神の御母でありながら、謙遜で慈愛にあふれた態度で、家庭の母として、他の家庭の奉仕をします。

「そのころマリアは、山地のユダの町に急いで出発し、ザカリアの家に行って、エリザベトにあいさつした。エリザベトがそのあいさつを聞いたとき、胎内の子はおどり、彼女は聖霊に満たされて声高く言った、『あなたは女の中で祝福された方で、あなたの胎内に実るものも祝福されています。主の御母が私を訪問してくださったのですか。これほどのことがどうして私に恵まれたのでしょう。何としたことでしょう、あなたのあいさつのみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は』」(ルカ1,39-45)。

主のはしためは、活動的な沈黙のうちに、使徒と弟子たちの教会という偉大な霊的家庭の奉仕にしています。そして主イエズスに仕えるために、キリスト教共同体のうちにいるようにと私たちに教えています。教会共同体は、私たちが生まれ育った家庭に続き、信仰のうちに生き、成長する場所です。

「弟子たちはオリーブ山からエルサレムに帰ってきた。それは安息日に許可されているほどの距離であった。ペトロとヨハネとヤコボとアンドレア、フィリッポとトマ、バルトロメオとマテオ、アルフェオの子ヤコボと熱心な者シモン、ヤコボの子ユダは町に帰ってきて、いつもよく集まる高間に上った。そして、婦人たちとイエズスの母マリアとイエズスの兄弟たちとともに、みな心を合わせて祈り続けていた」(使徒行録1,12-14)。

教会の教父であり、6世紀のミラノ司教聖アンブロージョは、聖マリアの従姉エリザベトへの訪問について、このように解説しています。

「神秘を告げた天使は、処女マリアに確信させるために、年取った不妊の女性が母になろうとしていた一つのしるしを通して、神は、お望みになることはすべておできになるということを示し、彼女に言いました。マリアはこのことを聞いてすぐ、預言を疑うことも、誰の権能によるものか不信に思うことも、示された証言を疑うこともなく、全衝動と献身の望みのままに、喜びにあふれ、即座に山地に向かいました。すでに神に満たされたマリアが、高みに向かって駆けつけずにいられたでしょうか。(・・・)マリアの到着と主の現存の恵みはすぐに現れました。というのは、エリザベトがマリアのあいさつを聞いたとき、胎内の子はおどり、彼女は聖霊に満たされたからです(ルカ1,41参照)。(・・・)子は喜びおどり、母親は聖霊に満たされました。しかし、子よりも先に母が満たされたのではありません。子が聖霊に満たされた後に、母をも満たしたのです。ヨハネは歓喜し、マリアの霊も歓喜しました。そしてヨハネの歓喜によって、エリザベトも聖霊に満たされました・・・信じたかたは幸せ(ルカ1,45参照)。あなたがたも幸せです。なぜならあなたがたは、聞いて信じたからです。信じるすべての魂は、神の業を認識し、みことばを宿して、生むのです。主を賛美するために、マリアの魂があなたがたのうちに、また、神の喜びに奮い立つために、マリアの霊が、あなたがた一人ひとりのうちにありますように。

肉でいうなら、キリストの母はただ一人であるが、信仰でいうなら、キリストは、すべての魂から生まれると言えます。事実、汚れや罪なく、勇敢に自らの純潔を保つならば、すべての魂が自分自身のうちに神のみことば(キリスト)を頂くのです。それゆえ、マリアの霊が、救い主である神に歓喜したとき、彼女の魂が神をほめたたえたように、誰でも、主をほめたたえることができるのです。

(聖アンブロシウス「ルカ福音書注解」2,19-23.26-27

聖母は、教会の御母であり、キリスト者の家庭の御母です。聖母は、私たち一人ひとりをイエズスのもとへ連れて行くために、見守って下さっています。十字架の足元にいた若い青年は、聖マリアの霊的学びやにおいて、使徒聖ヨハネとなり、福音史家となりました。聖母を愛し、若者と家庭の偉大な使徒であったヨハネ・パウロ2世の言葉を読んでみましょう。

「主の復活と昇天の出来事があってから、マリアは、聖霊の降臨を待ちながら、使徒たちとともに高間にこもっていました。マリアは栄光に上げられた主の母としてそこにいました。マリアは、『信仰の旅路を進み』、『十字架に至るまで』御子との一致を堅持しただけでなく、さらには、生まれたばかりの教会のなかで、『このかたは、あなたのお母さんです』と言って、御子が母として残された、『主のはしため』でもありました。このようにして、この母と教会との間には特別な関係が形成され始めました。生まれたばかりの教会は、事実御子の十字架と復活との結実です。マリアは、初めから際限なく御子とその働きに身をささげてきたので、教会の始まりに際しても引き続き母として自分を与えたとしても、それは必然的なことでした。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「救い主の母」40

「公会議は、至聖なるおとめであるキリストの母に関する真理を把握することが、教会に関する真理をきわめるうえで有効な助けとなることを強調しました。さらに、パウロ6世も、公会議が『教会憲章』を承認した直後、この文書にふれて次のように述べました。『至幅なるおとめマリアに関するカトリック教会の真の教えを知ることは、つねにキリストと教会との秘義を正確に知る鍵となるでしょう』。マリアは教会にあって、キリストの母であると同時に、救いの秘義のなかでキリストから使徒ヨハネを通して全人類に与えられた母です。それゆえ、マリアは、聖霊のうちに得た新しい母性によって、教会において、教会を通じて、すべての人々を一人ずつ包み込んでいます。マリアは、この意味で教会の母であり、教会の模範です。パウロ6世が希望し、願ったように、教会は『神の母なるこのおとめのうちに、キリストの模範が完璧になされるもっとも正統なかたちを見いださねばなりません』。(・・・)それこそ、キリスト者たちが、地上の旅路で信仰をもってマリアに目を上げ、『聖性において成長するよう努めている』理由です。シオンの娘としてもっとも優れたかたであるマリアは、地上の子らが-どこで、どのように生きていても-キリストのうちに天の御父の家にたどり着く道を見いだすのを助けます。それゆえ、教会は、救いの秘義の世界で、神の母と、過去、現在、未来にわたるきずなを保ち続け、彼女を、わたしたちに恩恵を得させる人類の霊的母として崇敬します。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「救い主の母」47

マリアとともに、神に従い、自分の意志を自由に沈黙させる

父なる神へどのように祈るかということについて述べるイエズスの教えにも、神のみ旨を探し、理解し、行なうという基本的な意義が明らかにされています。

「天にまします父のみ旨を果たす人はすべて私の兄弟、私の姉妹、私の母である」(マテオ12.50)。「私を遣わされたお方のみ旨を行い、そのみ業を果たすことが私の食べ物である」(ヨハネ4,34)。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る」(マテオ7,21)。「そのみ旨を行いたいと望む者は、私の教えが神からのものか、あるいは私自身で話しているのかを知るだろう」(ヨハネ7,17)。「さて私は(主イエズス・キリストの)父のみ前にひざまずこう-父から天と地のすべての家族が起こったからである-」(エフェゾ3,14-15)。

私たちの意志は、罪にしばられたとき、神のみ旨に対抗します。これは内なる戦いです。そして、この戦いは、神の恵みの鼓舞となり、私たちを回心へと招きます。言いかえれば、神の御子、私たちの主イエズス・キリストを模倣し、神の善意のうちに完全に信頼して、父なる神のみ旨を受け入れるよう、聖霊が私たちを招くのです。聖アウグスティヌスは、彼自身の経験をこのように私たちに語っています。

「他人の鉄鎖ではなく、私の意志という鉄鎖に縛られていた。敵は、私の意志を捉えて、私の意志から私を縛る鎖をつくり、それをもって私を縛りあげた。実際、意志は堕落して肉欲となり、肉欲はそれにふけることによって習慣となり、習慣はそれにさからわないうちに必然となった。これらのものは、いわば小さな輪のように互いに連結し、それゆえに私はそれを鎖とよんだのであるが、私を捉え、私を拘束して深い絆の状態にしてしまった。しかし、私のうちに起こりはじめていた新しい意志は、神よ、唯一の確かな喜びよ、あなたをただあなたゆえに喜び、楽しもうとする意志は、古い年を経て強くなった意志にまだ打ち勝つことができなかった。このように私の二つの意志が、一つは古く一つは新しく、一つは肉により一つは霊による意志が、たがいに争いあってその闘争によって私の魂を引きさいた。こうして私は、かつて読んだことを、すなわち『肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する』(ガラツィア5,17)ということを、私自身の経験によって理解した。私はこの二つの欲望のうちにあった(・・・)あなたに思いをよせる私の想念は、目覚めようと欲しながら、深い睡眠に負けて、ふたたび昏々と睡眠におちいる人びとの努力に似ていた。いつまでも眠りつづけたいと思う人はだれもいないし、また万人の健全な判断によると、目覚めている方がまさっている。しかも人間は手足がひどくだるいと、まどろみを捨てることを延ばし、起きるときがきてもすでに不快になっていた眠りを、かえって快く貪るのである。当時、私はまさに、このようにあなたの慈愛に身をゆだねる方が、自分の欲望に負けるよりもすぐれていると確信していたが、前者には私は喜んで服し、後者には快く縛られていた。実際、あなたが、『眠る者よ、起きよ、死者の中から立ちあがれ、キリストはあなたを照らすであろう』(エフェゾ5,14)と私にいわれるとき、私はあなたに答えることばがなかった。あなたはいたるところから、あなたのみことばの真理を示されたが、私はそれを確信していながら、まったく答えることばがなかった。私はただ、『すぐに』、『もうすぐに』、『もう少し待って』という気のない、眠気に満ちたことばを発するのみであった。そしてこの『すぐに、すぐに』はかぎりなくつづき、『もう少し待って』は長い間にわたった。

(・・・)私はなんと不幸な人間であろう。この死の体から私を解き放つのはだれだろう。主イエズス・キリストによって神に感謝せよ(ローマ7,24-25)」 (聖アウグスティヌス「告白」8,5

聖母は、すべての聖人たちにまさる方であり、無原罪です。それは、神の母となる任務を受けるために、恩恵に満たされ、原罪から保護されたからです。聖母は、十字架の足元に至るまで、御子の犠牲にご自分を一致させ、御父のみ旨に信頼して従い、完全にご自分のすべてを合致されました。

「この祝福が絶頂に達したのは、マリアが御子の十字架のもとに立ったときでした(ヨハネ19,25参照)。公会議は、それが『神の配慮によって』なされたことを述べ、『マリアは子とともに深く悲しみ、母の心をもってこのいけにえに自分を一致させ、自分から生まれたいけにえの奉献に心をこめて同意し』、『子との一致を十字架に至るまで忠実に保った』と宣言しています。この一致は信仰による一致でした。そして、この信仰は、お告げのときに神のみ使いからの知らせを受け入れ、信じたときからのあの信仰でした。(・・・)御子は、木につるされ、処刑される罪人として断末魔の苦しみにあえいでいます。『彼は、人から軽べつされ、捨てられた、苦しむ人。・・・見下げられ、無視され、われらの目を引くものはなにもありません』(イザヤ53,3-5参照)。マリアは何と偉大なのでしょう。『悟りがたい神の定め』(ローマ11,33参照)に対してマリアが示した『信仰による従順』はなんと英雄的だったのでしょう。なんと惜しみない信頼をもって、『その道はきわめがたい』(ローマ11,33参照)神に『知性と意志とを完全に奉献し』、我が身をゆだねているのでしょう。さらには、マリアの魂の内に働く恩恵の力のなんと強いことでしょう。聖霊と、その光と力の効果はなんと深いのでしょう。(・・・)十字架のもとで、マリアは、この驚くべき自己放棄に、自分も信仰によってあずかったからです。(・・・)かつてシメオンが・・・マリアに向かって言われた『あなた自身も心を剣で貫かれるでしょう』という預言も、こうして成就しました。(・・・)これは教父たちが教えていることですが、公会議は、『教会憲章』のなかで、とくに聖イレネオのことばを引用しています。『エバの不従順によるもつれがマリアの従順によって解かれ、処女エバが不信仰によって縛ったものを、処女マリアが信仰によって解いた』。これも公会議が取り上げていますが、教父たちは、『エバと比較して、マリアを生ける者の母とよび、エバによって死、マリアによって生命としばしば述べています』。このように、『信じたかたは幸せ』という言葉は、まさに私たちにとって一つの合い鍵であって、これをもって、『恵まれた者』という天使のあいさつを受けたマリアの内奥に入ることができるのです。マリアは、『恵まれた者』として、永遠の昔からキリストの秘義にあずかっていましたが、信仰によって、キリストの地上の生活全体にわたってその秘義にあずかりました。マリアは、『信仰の旅路を進み』つつ、同時に控えめでしたが、直接的かつ効果的にキリストの秘義を人々にもたらすものとなりました。そして、今もそれを続けています。マリアは、キリストの秘義を通して人々の間にいます。このように神の母の秘義は、御子の秘義を通してこそ明らかになるのです。」                      (ヨハネ・パウロ2世回勅「救い主の母」18-19

他者に耳を傾けるために、沈黙することを知る

耳を傾けるという能力は、沈黙を必要とします。「沈黙する」とは、自分ではなく、他者に注意を傾け、ただ言葉によってだけでなく、心において沈黙することをいいます。沈黙するということは、相手が話しているとき、裁くことなく、また裁かれていると感じず、何を言って何を答えようかと考えることなく、相手に耳を傾けるということです。

「私は先生の声を耳に入れず、教師のいうことを聞かなかった」(格言5,13)。

「愚か者は自分の道を正しいと思い、知恵者は人の勧めを聞き入れる」(格言12,15)。

「いつも聞く耳を備え、返事は慎重にせよ」(シラ5,11)。

「愛する兄弟たちよ、すべての人は聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くなければならぬことを知れ」(ヤコボ1,19)。

まるで逆説のようですが、話すことを知るとは、傾聴することを知る後に来るもので、傾聴することを知るとは、霊の静寂の中で言葉の船を導く内的沈黙から導かれるものです。

「私たちをお創りになられた神は、私たちが自分の考えを他者へ表し、まるで蔵のような心から私たちの思いを差し出し、すべての人に共通の人間性を通して、他者と意思疎通を図るために、私たちに言葉の風習を与えられました。もし、私たちがただ一つの魂からなっていたなら、私たちの思いだけで直接話し合うことができたでしょうが、私たちの魂は、肉のヴェールの下に隠されたさまざまな思いからなっているので、その奥底にあるものを明らかにするために、言葉や名称が必要なのです。ある意味深い表現に出会ったとき、私たちの霊は、空気を横切り、話し手から聞き手へと通る船のように言葉の中に旅立ちます。大きな落ち着きと静けさの中にあるなら、演説は、安全な港に入るように、聴衆たちの耳に入りますが、もし、激しい嵐のような聴衆たちの騒ぎに遭うなら、それは、空気に散らされ、難波するのです。ですから、沈黙によって、この言葉のための静けさをつくり出しなさい。きっと、あなたがたが会得すべき貴重な何かが見えてくるでしょう。」

(聖大バジリオ説教「自分自身への注意」)

耳を傾けるという能力は、人や団体間の対話を可能にします。第2バチカン公会議後、「対話」は教会の責務となりました。特に、キリスト教徒が一致するエキュメニカルな領域(キリスト教信条間の対話)において、三位一体の愛の真の姿を世界に証しするために、対話が急がれています。ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世のこの数十年間における多くの働きは、目に見える一致実現のための道を私たちに示しています。その出発点の一つが、内的な沈黙から生まれる傾聴の力です。

「祈りがエキュメニカルな刷新と一致への『原動力』だとすれば、公会議が『対話』と呼ぶすべてのことが、これに基づき、ここから支えの力をくみ取ります。この定義には、確かに現代の人格主義の考え方とのつながりがないわけではありません。『対話』のための姿勢は、人格としての人間の本性と尊さを前提としています。哲学的にいえば,この前提は、公会議によって告げられた人間に関するキリスト教の真理に基づいています。人間は、『神が地上でただ一つ自立を望んだ被造物』です。ですから人間は、『心から自分をささげない限り,自分自身を完全に見いだすこと』はできません。対話は、人間にとって自己を完成するために通らなければならない関門なのです。それはだれにも、またすべての人間の共同体にもいえることです。『対話』という言葉からは、まず、わかるという点(dia-logos“言葉をとおして,言葉というものを使い合っての意)が先立つように思われますが、あらゆる対話にはこれを補完する次元、実存的な次元があります。対話は全体としての人間にかかわるのです。共同体間の対話は、とくに当事者いずれもの主体性を結び合わせます。

こうした対話の真実、すなわち回勅『エクレジアム・スアム』の中で教皇パウロ6世が非常にはっきりと指摘した真実は、公会議の教えとエキュメニカルな実践にも取り入れられています。対話は、ただ自分の考えていることを交換し合うことではありません。対話はつねに、『たまものを交換し合うこと』なのです。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「キリスト者の一致」28

聖人たちは、人を迎え入れ、耳を傾けるという特別な恩恵をもっていました。これは、イエズスと聖母に出会うことによって開花する恵みです。彼らは、沈黙のうちに、耳を傾け、祈り、そして話すときは、言葉を浪費することなく、問題を的確に捉えて話していました。

受けた侮辱を前に、愛の沈黙を

「司祭長と全議員はイエズスを死刑にする偽りの証言を求めていた。多くの偽証人が来たけれども、これという証拠は上がらなかった。その後二人の男が来て、『彼は私は神殿を壊して三日で建て直せると言いました』と言った。大司祭は立ち上がって、『一言も答えないのか。この者たちが示している証拠はどうだ』と尋ねたが、イエズスは黙して語らなかった」(マテオ26,59-63)。

迫害者に対するイエズスの沈黙を観想する心をもっていないなら、私たちは、誰かに侮辱され、挑発された時、沈黙することはできません。イエズスは、肉となられたみことばです。みことばは、ことばでありながらも沈黙し、そして敵のため、すべての罪人のため、私たち皆のために、愛を叫んでいるのです!もし、私たちが、十字架上の主イエズスからではなく、他者からの慰めや友情を求めることに慣れてしまっているなら、共感の代わりに、平手打ちを食らったとき、私たちはどのように反応するでしょうか?受けた侮辱を忘れればいいということではなく、たとえそれが忘れられないことであっても、ゴルゴタの道のりの先に、涙がすべてぬぐわれ(黙示録7,17)、すべての苦しみが永遠のいのちの喜びに変わる復活の日まで・・・沈黙のうちに愛し、主に信頼することが必要です。

「誰かが私たちを侮辱し、冒涜し、怒らせ、けんかをあおるとき、黙ることを恥じずに、沈黙に従事しましょう。確かに、私たちを挑発し、ののしるこの人は罪人であり、そして私たちにも自分と同じように言い返すことを求めてきます。もし黙って、知らぬふりをするなら、たいていこう言うでしょう。『なんで黙っているんだ。勇気があったら何か言ってみろ。意気地なし。オレが黙らせたからおまえは何も言えない。』そのため、そこでもしあなたが黙るなら,彼は負け、嘲笑され、見下され、いっぱい食わされたと感じて、その勢いは崩れます。しかし、もし言い返すなら、彼は同類を見つけたことで、上位に立ったと思うでしょう。あなたが黙るなら、人はこう言います。『片方は口論を始めたが、もう一方は相手にしていない。』しかし、あなたがもしこの悪口に言い返すなら、こう言われるでしょう。『彼ら二人ともが喧嘩をした。』二人ともが非難され、罪を免れないでしょう。そのため、彼は私が彼と同じように話し、ふるまうように、あらゆる方法で私を怒らせようとします。しかし、敬虔な人は、知らぬふりをし、黙って、良心の実を守らなければいけません。横柄になじり返すよりも、善人たちの評価に委ね、自分のまじめさを喜ぶべきなのです。これが善人の沈黙です。自分の正直さを自覚する者は、偽りに心を動かされてはならず、また自分の証しより他人の中傷を重視してはいけないのです。」

(聖アンブロシウス「義務論」1,17-18

連帯から一致へ。友達であること、または友達になろうとすること、つまり連帯するということは、キリスト信者の間や信者と他のすべての人たちの間の関係を示す基本原則ではありません。キリスト教的な連帯は、人間における三位一体の神の内なるいのちの反映に基づいています。すべての人が神との一致に招かれているということは、私たちも、私たちを愛してくださっている神のように、互いに愛し合うよう求められているということです。神は私たちが罪人である時も、私たちを愛してくださっています。それどころかむしろ私たちをその罪から救うために、愛してくださっているのです。神は、私たちが敵対していても愛してくださり、そして私たちにも、神が愛するように敵を愛するよう求めておられます。神は、彼らを愛しておられます。それは彼らが回心し、神のもとに帰ってくるためで、必ずしも私たちのところへ帰ってくる必要はないのです。人がともに生きるという連帯の基盤に、この新しい愛の展望が組み込まれることによって、人類の価値は、卓越します。

「連帯は、明らかにキリスト教的徳の一つです。連帯は、信仰の光りによって自らを越え、完全な無償、許しと和解というキリスト教特有の次元へと向かいます。それで、隣人はただ単に、すべての人に対する基本的平等や権利によって人であるというだけでなく、御父である神の生きたお姿になり、イエズス・キリストの御血によってあがなわれ、聖霊の不変の働きのもとに置かれるのです。それゆえ隣人は、彼が敵であっても、主が彼を愛するのと同じ愛をもって、愛されるべきであり、彼のために犠牲をはらう準備、それはたとえ『兄弟のために命をささげる』(1ヨハネ3,16参照)という最高の犠牲であっても、その心構えがなければならないのです。(・・・)人間的自然的な結びつきはすでに強く密接でありますが、信仰に照らされ、この結びつきを越えて、新しい模範、すなわち連帯という究極の要求によって導かれるべき人類の一致という新しい模範が示されるのです。神の内なるいのちである三位一体の姿を映し出したこの最高の一致の模範は、私たちキリスト信者が『一致(コムニオ)』ということばで示しているものです。」

(ヨハネ・パウロ2世回勅「真の開発とは」40

多くの聖人たちにならいましょう。彼らは、友も敵も、すべての人を迎え入れていました。すべての人に、愛と思いやりのことばを、そして沈黙の祈りからなる「ことば」をかけていました。彼らは、すべての人との友好関係を求めていたわけではなく、イエズスと聖マリアの名において、キリスト信者の心と真の単純さをもって、すべての人を受け入れていました。

沈黙は、罪あるものであってはならない

私たちは、不正義を前に、また他の人に対する社会的、道徳的教育責任がある時に、黙っていることはできません。

語る人は神のみことばにふさわしいように語り、愛の仕事に携わる人は、神に分け与えられた力によって仕事せよ。それはイエズス・キリストによってすべてについて神に光栄を帰するためである。光栄と力は代々にキリストの上にあれ。アーメン(1ペトロ4,11)。

主はある夜幻のうちにパウロに向かい「恐れるな。話せ。黙るな。・・・」と言われた(使徒行録18,9)。

おまえはその説得を聞かず、そのことばに耳をかすな。おまえは彼に対してあわれみの念を持たず、情け容赦なく扱い、彼の罪を隠してやろうとはするな(第二法の書13,9)。

特に、子に対する親の教育責任は、耳を傾けるための沈黙と、耳を傾けさせるためのことばを測ることを要します。すべては、神のみことばに耳を傾けるということに、根拠を置くべきであり、これは、子どもから大人まですべてのキリスト信者に関係しています。

(・・・)あなたは、自分の子が従順であることを望みますか?彼を最初から主において育て、教育し、忠告しなさい。彼にとって、神の書(聖書)に耳を傾けることは無駄だと思わないでください。何よりまず「父と母を敬え」というこの書のことばは、あなたにとっても益となるのです。「それは修道者のためのもので、私は、彼を修道者にしたいわけではない」といわないでください。修道者にならなければいけないということではないのです。しかし、あなたはなぜ多く稼ぐことを気にかけるのですか?彼をキリスト者にしなさい。この世に生きるものにとって、何にもまして必要なのは聖なる書の教えを知ることで、それはとくに若者にとってです。この年代には、たくさんの愚かさがあり、幼い時期に異教の書物によって、死を恐れ、快楽の奴隷になっている人たちを英雄のように崇拝することを覚えるために、この愚かさは増強します。(・・・)まさにこのために、解毒剤として聖なる書が必要なのです(・・・)。

子どもたちの世話にあたっては、主において育て、教育し、そして忠告しなさい。私たちにとって、他のすべてのことは二の次のことです!もし、初めのうちから子どもに賢明であるように教えるなら、彼は、他のどんなものより偉大な富と、価値ある栄光を手に入れるでしょう。彼のために、お金を手に入れるためのこの地上の職業、技能を教えるよりも、お金を軽視する霊的な技能を教えなさい。彼を裕福にしたいのなら、このように行いなさい。裕福な人とは、たくさんのお金を使い、すべてに囲まれている者ではなく、お金を必要としない者のことです。これをあなたの子に教え、教育しなさい。これこそが、もっとも偉大な富なのです。

彼を有名にしようとか、科学の分野において著名にしようとしてはいけません。それよりも、この世のいのちの栄誉を軽視することを教えなさい。そうすれば、この世において、彼はより輝き、より尊い者になるでしょう。親は、子を裕福にすることも貧しくすることもできるのです。先生や技能から学ぶのではなく、神のみことばから学ぶのです。長生きすることを案じるのではなく、終わりのない不朽のいのちを獲得することに心を配りなさい。

(聖ヨハネス・クリュソストモス説教「エフェゾ人への手紙について」21,1-2

私たちは、自然の条件によって受胎するいのちの軽視に対し、沈黙すべきではありません。いのちを守るために、話すことを恐れてはいけません。私たちが恐れなければいけないのは、罪ある沈黙にとどまること、そして悪への加担です。

今日、弱い立場の人、特に、まだ生まれていない胎児たちのように守られていない人など、いのちの基本的権利が踏みにじられている人々が非常にたくさんいます。教会が、前世紀の終わりにその当時の不正義に対して沈黙を許さなかったのであれば、なおさら、過去の社会的不正義に対し、今日黙っていることはできません。残念ながら、過去の不正義はいまだ克服されておらず、世界の多くの地域で、不正義や抑圧はより強いものになっています。これは、おそらく新しい社会秩序の体制に、発展という要素が取り違えられているためでしょう。

この回勅は、(・・・)人間のいのちの価値と不可侵性を再び明確に、力強く主張するものであり、また同時に、いかなる人間のいのちも尊敬し、守り、愛し、仕えよ!という神の御名によって各々すべての人に向けられた熱烈な訴えでもあります。ただこの道においてのみ正義と発展、真の自由と平和、そして幸福を見い出すのです。(・・・)

(ヨハネ・パウロ2世回勅「いのちの福音」5

また、よりひそかなところで、しかし少なからず深刻な現実に行われている安楽死の体制に対しても、黙ることは正当ではありません。それは、例えば 移植するための臓器を十分確保するために、提供者の死の判定において、客観的で適正な基準が守られずに臓器が摘出されるということが起きかねないからです。

(ヨハネ・パウロ2世回勅「いのちの福音」15

キリスト信者の生き方と模範によって、ことばは有効になります。なぜなら、証しは、良心を奮起させ、まるで「正常」のようになって受け取られている不正義を前に、沈黙を壊す声だからです。

沈黙の秘義のうちにロザリオを祈る

私たちは、ロザリオの玄義(秘義)のうちに、主の生涯を見つめ、処女聖マリアとともに黙想します。しかし、どこにも書かれていない、明言されていない秘儀があります。それは、沈黙の秘儀です。この沈黙の秘儀は、私たちの祈りにおいて、特にロザリオのような口祷の祈りにおいて、とても重要です。神との出会いの場である聖なる沈黙を再発見することは、霊魂において、また教会やこの世において働かれ、作用しておられる神の秘義を観想することへと私たちの心を開きます。私たちは、自分や他の人たちの人生における主の働きすべてを理解することはできません。しかし、主が行われることすべてを、聖マリアのように沈黙のうちに愛することはできるのです!

だが人は、それを考えようとしない、主の道に心をとどめる者があろうか。嵐も、人の目に見えず、主のみ業のほとんどは隠されている(シラ16,20-21)。

ああ、神の富と上知と知識の深さよ、そのさばきは計り知れず、その道はきわめがたい。「主の思いを知った者がいるか。だれがそのはかりごとの相談役であったか」(ローマ11,33-34)。

そしてイエズスは聖霊によって喜びに身をふるわせながらこう言われた。「天地の主なる父よ、あなたを賛美します。あなたはこれらのことを知恵のある人、賢い人に隠し、小さな人々にお示しくださいました。」(ルカ10,21)。

たとい私が預言の賜をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰をもっていても、愛がなければ無に等しい(1コリント13,2)。

神の愛の秘義は、ことばによって理解するのではなく、祈りの心へ向かうために声と思いを沈黙させることによって理解するものです。愛するがままになるということ、つまり、愛であるお方を愛するということです。

絶えず神を思うということは、まったく敬虔なことであり、主を愛する霊魂は、決してそれに飽くことはありません。一方、無謀なのは、それをことばで解釈しようとすることです。実際、私たちの理解力というのは、このように崇高なことや論点からははるかに遠く、その上、私たちがどれだけ理解できるのかは、このあいまいで不正確な世の中が表わしているとおりです。であるなら、まさにそのような真理の偉大さは、私たちの知性や表現力をはるかに越えるものであり、私たちは、自分の知性が劣っているとき、沈黙をおいて他にできることがあるでしょうか?(・・・)むしろ、知れば知るほど、己の弱さに気づくでしょう。

(聖大バジリオ 信仰についての説教1

聖マリアの慎ましく活動的な信仰は、派手なものでも注目されるものでもなく、他の人の賛同の意思やことばを求めるものでもありません。聖マリアは、日々、信仰の表明のうちに身をゆだね、この信仰によって、彼女は神のいのちの秘義とのいい尽くしがたい関係にありました。

イエズスがナザレの家で隠された生活を送っていた何年もの間、聖マリアの生活もまた、信仰のうちに「キリストとともに神の中に隠されて」(コロサイ3,3)いました。信仰とは、実際、神の秘義に接することであり、聖マリアは、神が人となられたという、いい尽くしがたい秘義に日々、絶えず接していました。この秘義は、旧約におけるあらゆる啓示を越えるものでした。お告げの瞬間から、処女聖マリアの思考には、神がご自身を現されるというまったく「新しいもの」が入れられ、この秘義を自覚したのでした。イエズスは、後に、「父よ、・・・あなたはこれらのことを知恵ある人、賢い人に隠し、小さな人々に現されました」(マテオ11,25)といわれますが、聖マリアは、その小さな人々のなかの最初の人となりました。(・・・)こうして、この御子の母は、お告げにおいて、そして次々に起こる出来事において言われたことを記憶にとどめ、新しい契約の始まりであるこのまったく「新しい」信仰を受け入れます。(・・・)しかしながら、この始まりにおいては、困難とはいえないにせよ、ある種の「信仰の暗やみ」をともなう心の苦悩がみてとれます。それは、十字架の聖ヨハネのことばを用いていえば「信仰の暗やみ」、つまり、まるで「ヴェール」を介して見るように「見えざるもの(目には見えない神の秘義)」へ近づき、秘義と親密に生きなければならないということです。

(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅「救い主の母」17

信仰の婦人、聖母は、周囲の人々に確信や確証のことばを求めることはありませんでした。彼女のその力は、神の秘義との出会いからわき出るものでした。だからこそ、彼女は沈黙を愛し、求めていたのです。

沈黙は傾聴への道である

ことばと思いの沈黙は、「心の耳」に働く場所を与えるという目的をもっています。心の耳とは、一つは耳を傾けたいという願いをもって神に向けられ、もう片方は、自己をより深く認識し、真理のうちに歩み、私たちが自分自身に言い聞かせているあらゆる偽りをあばくために自分に向けられるものです。

人間の心の深みを探ることも、その精神の思いを見分けることもできないあなたたちに、万物の創り主である神に分けいりその思いを探りそのはかりごとを理解することができるでしょうか。(ユディト8,14

主よ、私を探り、心を知り、私を試し、秘密を見ぬき、悪の道に走っていないかを見て、私をもとの道に導きたまえ。(詩編139,23-24

私たちが話している多くのことばは、実に余計で、無駄なものです。私たちの霊魂は自分自身の様々な思いに影響され、その思いが平凡なものであれば、心は風に舞う葉っぱのようにひらひら飛びまわり、その思いが重苦しいものであれば、心は海中の石のように底に沈むのです。

よくないおしゃべりをやめない人は、まったく道を外れています。人間の思考は、水のようです。この水は、容器に入っているなら、雨として降ったものは天に向かって吸い上げられるでしょうが、それをこぼすなら、下に向かって無駄に流れ、無くなってしまうのです。沈黙への警戒心を壊すあらゆる無駄なことばは、霊魂を自分の外に逃してしまう穴のようなものです。こうして自分自身を認識することができなくなるのです。なぜなら、たくさんしゃべることによって外面的なことに自己を奪われ、自分自身についてじっくり考える力がなくなってしまうからです。周りに防御するものが何もなくなった瞬間から、敵のわなや打撃にまるごとさらされるのです。(・・・)

この思考は、敵の襲撃にさらされた町のようなものです。なぜなら、沈黙という壁によって守られていないからです。つまり、そのおしゃべりによって、外に出てしまうなら、防御壁なしに敵にさらされます。そして、敵は楽々勝つことができるのです。そうです、なぜなら、この町自身が内部で争っているのですから。(・・・)

もしも、沈黙が話すことにおいてのものだけで、思いにおいての沈黙がないならば、逆効果になってしまいます。実際、私たちの心は、たびたび自分たちの過度の沈黙によって、様々な思いのひどいおしゃべりに苦しまなければなりません。これらの思いは、私たちのむちゃな沈黙によって、窮屈になればなるほど、より激しく沸き立つのです。そして、しばしばこれらの思いは、心のより多くの場所を占領することになるのです。そうです、なぜなら、それらを外から叱責できる人が誰もいないからです。

こうして、時に、思考は、その沈黙において高慢になり、おしゃべりをする人たちのことを不完全なものとして見るようになります。身体の口を閉じていても、高慢によって、悪習への扉を開いているということに気がつかないのです。実際、舌をにはブレーキをかけていても、思いに手綱をまかせているのです。怠慢によって、自分自身については注意せず、それでいて好き勝手に他人を避難するのです。そうです、多くのことが心の内に秘密にされているため、このように好き勝手にできるのです。

(聖大グレゴリウス ヨブの書注解7,57-61

たくさんのキリスト信者が、霊的な生き方をせず、信じていない人たちと同じように、すべてのことに悩み、イライラし、あらゆる荒波に抑圧された生活をしています。日常の出来事に流されている者にとって、祈ることは容易ではなく、信仰における確固たる歩みからは遠いのです。ヨハネ・パウロ一世の前任者パウロ6世は、この信仰の歩みについて、二つの鍵となることばを提示しています。一つ目は、神の方へまなざしを向けるという意味の「方向づけ」です。

同様の霊的条件として提示するもう一つのことばは、沈黙ということばです。これは一見矛盾したことばのようですが、シンプルで筋の通った逆説です。宗教上の課題においてなにかを摘み取るために、私たちには沈黙が必要です。内的沈黙です。それには、恐らくいくらかの外的沈黙も要求されるでしょう。私たちが傾聴するときに置かれる環境には、あらゆる音、感覚、声があり、これらは、私たちを高慢にし、私たちの耳を聞こえなくし、私たちが望もうが望むまいが、様々なイメージや刺激の反応でいっぱいし、祈り、考える私たちの内的自由を麻痺させます。沈黙とは、それらすべての音、感知するすべての感覚、すべての声の休止といえるでしょう。しかし、ここでいう沈黙とは、眠り(休息)という意味ではありません。私たちの場合、沈黙は、自分自身との対話、静かな熟考、良心の選択、個人的静寂のときであり、自分自身を回復させる試みなのです。傾聴の力を沈黙にゆだねましょう。では、なにについて、誰に対して耳を傾けるのでしょうか?ことばで言うことはできませんが、もし神が私たちにその恵みをお与えになるなら、私たちは霊的傾聴によって神のみ声を感知することができるということを知っています。神のみ声は、その甘美さと力強さゆえに、そして神ご自身のみことばであるゆえに、すぐに聞き分けることができます。

(パウロ6世一般謁見 1973125日)

聖母は、御子に耳を傾けるために、私たちに心の平安を求めておられます。様々な思いが散乱し、余計なことばがあふれているところに、神の「み声」のための場所はありません。

神のみことばに耳を傾けるための沈黙

私たちが沈黙する時、神は私たちに語られます。神は、私たちが、おしゃべりすることよりも耳を傾けることを待っておられます。私たちの心の沈黙とは、神がそのみことばをお書きになる空白のページなのです。

神の家へ行く時には足どりに用心せよ。素直な心で近づくがよい。あなたのいけにえは愚か者の供え物より値打ちがあろう。愚か者が、自分で悪事をしているのだとは知らないにしても(コへレット4,17)。

むしろこう命じた、「私の声を聞け、そうすれば私はおまえたちを私の民とし、幸せになるように、わたしの定める道を歩き続けさせよう」(エレミア7,23)。

これらのことを話しておられると、群衆の中からある女が、「幸せなこと、あなたを宿した母、あなたが吸った乳房は」と叫んだ。しかしイエズスは、「幸せなのはむしろ、神のみことばを聞いてそれを守る人だ」と言われた(ルカ11,27-28)。

人間のことばと神のみことばとの間には、たいへん大きな違いがあります。「みことば」とは、神が人として語るために人となられ、肉のうちに神を伝え啓示する、神の人間に対することばなのです。

「はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった」(ヨハネ1,1)。私たちも話しをするとき、ことばを口にする。では、これらのことばは、神とともにあったこの「みことば」と同じなのだろうか?私たちの話すことばは、瞬間的に鳴り響き、そして消えていく。であるなら、また神のみことばも、発音されたとたんに無くなってしまったのだろうか?しかし、そうであるなら、すべてはみことばによって創られ、みことばなしに創られたものはなに一つないというのは、どういうことなのか?もし、みことばが失われていく響き(音)であるなら、みことばによって創造されたものを、どうしてみことばが治めることができるだろうか?では、この響いたあとも過ぎ去らない「みことば」とはなんであるのか? みな、心して聴きなさい。これは重要なことである。

(聖アウグスティヌス ヨハネ福音書注解1,8

神のみことばに耳を傾けるとは、イエズスの教えを実行するためにイエズスに聞き従うということです。私たちの沈黙は、福音書が伝えるみことばのうちにイエズスと出会うための心の準備となるべきものです。

したがって聖書のなかには、神の真理と聖性がそこなわれることなく、人間に対する永遠の英知が、くすしくも己を低くして人間に近づいたことが示されている。それは、「私たちが、神のいい尽くしがたいやさしさを知り、神が私たちのためにご自分の話しを加減されたということを学ぶためである」実際、かつて永遠の御父のみことばが、人間性という弱さを引き受けて人に似たものとなったように、人間の用語で表された神のことばは人間の話しに似たものとなった。

(第二バチカン公会議啓示憲章13

神と人ついての真理の知識は、イエズスのいのちとその行ない、ことばによって啓示されました。また、それをこのように何世紀にもわたってすべての人々に伝え、保護していくために、イエズスご自身が使徒たちを選ばれました。

神のことばは、信じるすべてのものにとっての救いのための神の力であり(ローマ1,16参照)、新約の各書においてすぐれた方法で示され、その力を明らかにしている。実際、時が満ちて(ガラテア4,4参照)、みことばは肉体となり、恩恵と真理に満たされ、私たちのうちに住まわれた(ヨハネ1,14参照)。

キリストは神の国を地上に建て、その行ないとことばをもって御父とご自身を現わし、死と復活と栄えある昇天、そして聖霊の派遣とによって、ご自分の任務を完了した。彼(キリスト)だけが、永遠のいのちのことばをもち(ヨハネ6,62参照)、地上から上げられて、すべての人をご自分に引き寄せる(ヨハネ12,32以下参照)。しかし、この奥義は、前の世代にはあらわされなかったが(エフェゾ3,4-6以下参照)、今では、聖霊において聖なる使徒たちおよび預言者たちに啓示された。それは彼らが福音を宣教し、主イエズス・キリストへの信仰を起こさせ、教会を集めるためである。新約の各聖書は、それらのすべての事の永久の神聖な証である。

(第二バチカン公会議啓示憲章17

さまざまな場所において、聖母の存在とその働きが明らかにされています。しかし、聖母のメッセージはすべて、イエズス・キリストによる神の啓示と、カトリック教会によって伝えられる神のみ旨のために、なにひとつ付け加えるものではありません。それらのメッセージは、永遠のいのちというゴールに確実に到着するための、確かな本道を指し示す標識として読まれているのです。