神の国

神の国の「門」はイエス・キリストである

使徒の上に築かれた教会は、イエス・キリストを、預言者をとおして御父より約束され、時が満ちて世に遣わされた王たるメシア、私たちを救う任務と力を託された方として認めています。

「(・・・キリスト、すなわち)神の国を創立し、世の力に打ち勝ったメシアです。すべてのものが造られる前、すなわち夜明け前に、御父から生まれたみことばです。受肉し、死んで復活し、天の座に就かれた御子です。パンとぶどう酒の神秘のうちに、罪のゆるしを与え、神との和解をもたらす、永遠の祭司です。復活によって死に打ち勝ち、頭を上げる王です」(ベネディクト1620111116日「一般謁見」カトリック中央協議会訳より)

キリストは、神聖をもちながら私たちのために人となられました。そして受難の後、死から復活され、私たちに天の道を開いてくださったのです。

「自ら至福を賦与する神が、私たちの人間性をとるものとなり、ご自分の神聖にあずかる近道を用意したからである。彼は、私たちを死滅と悲惨から自由にする場合、不滅にして至福な天使たちにあずかることによって私たちが不滅なもの至福なるものとなるようにと、そうした天使たちに導くのではない。そうではなく、かの三位一体なるかたへとすなわち、そのかたにあずかることによって天使たちもまた至福となるところの三位一体なるかたへと導くのである。こうした理由から、彼は仲介者となるために『僕のかたちをとり』『天使たちよりも低いものとされる』ことを選んだとき、彼は、神のかたちをとって天使たちの上にとどまったのである。いと高きところにおいて生命であるかたは、低いところにおいても同様、生命への道であったのである」(聖アウグスティヌス「神の国」IX, 15,2 『アウグスティヌス著作集』より)

キリスト・イエスは、「神と人間の間の唯一の仲立ち」(1ティモテオ2,5)として、救いに到達するために通らなければならない天国の門です。

「まことにまことに私は言う。私は羊の門である。私より前に来た者はみな盗人で強盗である。羊は彼らの言うことを聞かなかった。私は門である。私を通って入る者は救われるだろう」(ヨハネ10,7-9)。

私たちにとって、この門をとおって神の国に入るとは、受肉された神のみことばであるキリストの位格と教え、そして回心への招きを信仰のうちに受け入れることを意味しています。

「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」(マルコ1,15)。

「信仰の門」(使徒行録14,27)は、つねに私たちに開かれています。それは私たちを神との交わりの生活へと促し、神の教会へと導き入れてくれます。神のことばがのべ伝えられ、私たちを造り変える恵みによって心が形づくられるとき、私たちはこの門を通ることができます。この門に入るとは、生涯にわたって続く旅に出発することです。この旅は洗礼によって始まります(ローマ6、4参照)。私たちは洗礼によって神を父と呼ぶことができるようになるからです。そして、旅は死からの永遠のいのちに過ぎ越すことによって終わります。永遠のいのちは主イエスの復活がもたらしたものです。イエスのみ心は、聖霊を与えることによって、イエスを信じる者をご自分の栄光へ引き寄せることでした(ヨハネ17,22参照)」(ベネディクト16世 自発教令「信仰の門」1 カトリック中央協議会訳より)

イエスは神の国設立のための道である

イエスは、ご自分の生き方とことばによって神の国へと導く道筋を記されました。イエスの人性は、神性とは切り離せないものであり、この人性のうちに、すべての人間が呼ばれている「救い」を見ることができるのです。

「『私は道であり、真理であり、いのちである。私によらずにはだれ一人父のみもとには行けない。(・・・)』フィリッポは、『主よ、私たちに父をお見せください。それだけで十分です』といった。イエスはいわれた、『フィリッポ、私はこんなに長くあなたたちとともにいたのに、まだ私を知らないのか。私を見た人は父を見た』」(ヨハネ14,6-9

イエスがご自分を救いの道であるといわれる時、全人類の唯一の救いの道であることも意味しています。イエスのおかげで人間はゆるしを受けることができ、イエスによってのみ私たちは神のいのちにあずかることができるのです。

「それゆえ、その道は一国民のものではなくて、諸国民のものであり、また律法と主のことばはシオンとエルサレムの中に留まるのではなく、そこから流れ出て、全世界に行きわたるのである。(・・・)これが人間の全体を浄め、そのあらゆる部分で死ぬべきものを死なないもののためにそなえる道である。(・・・)この道は、一部はこのように未来のこととして予告され、一部はすでに起こった出来事として告げられていて、決して人類から取り去られたことはない。それゆえ、この道によらないでは、だれも救われたことなく、だれも救われることはなく、だれも救われるだろうこともないのである」(聖アウグスティヌス「神の国」X,32.2 『アウグスティヌス著作集』より)

イエスの歩まれた道をたどるということは、単に罪を放棄するだけでなく、何よりイエスが実践された徳(特に受難の間)を見習い、神のみ旨を従順に力強く成し遂げることを学ぶためにイエスに注目することです。それは、あらゆる混乱した感情にしばられない自由な心で愛するため、自己愛の放棄を要します。

「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え。いのちを救おうと思う者はそれを失い、私のためにいのちを失う者はそれを受ける」(マテオ16,24-25

キリストのうちに、苦しみや死は愛によって姿を変え、天国の至福に通じる地上の道となります。イエスが記された道に従う人は、現世のいのちだけを考えることなく、自分のいのちを日々神に奉献し続けることによって、永遠のいのちのためにキリストの復活にあずかるに至ることを知っています。

「キリストはわれわれのために苦しみを受けることによって、われわれがその跡を踏むよう模範を示したばかりでなく(1ペトロ2,21参照)、新しい道を開いた。われわれがこの道に従うならば、生と死は聖化され、新しい意味をもつものとなる」(第2バチカン公会議『現代世界憲章』22

イエスは真理である

死の宣告をしようとするピラトの前で、イエスはご自分がユダヤ人の王であることを告げ、また、このようにいわれます。『私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』(ヨハネ18,37

イエスは、神と人についての真理です。イエスの生き方とことばは、私たちに、あわれみと正義である御父の真のみ顔を教え、イエスの神的いのちに与りイエスによってイエスとともに愛するために神の似姿に創られた私たち人間の本質を啓示しています。

「実際、受肉したみことばの秘義においてでなければ、人間の秘義はほんとうに明らかにはならない。(・・・)最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明かにする」(第2バチカン公会議『現代世界憲章』22

キリストが聖霊の賜物をとおして私たちに教え伝えておられる真理は、私たちの理性だけでなく倫理的側面にまで及び、永遠のいのちにたどり着くために神の恩恵によって果たすべき善を知るために、精神を照らし心に力を与えます。

「私のことばを守ればあなたたちはまことに私の弟子である。またあなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由な者とするだろう(・・・)まことにまことに私はいう。罪を犯す者はみな罪の奴隷である。奴隷はいつまでも家にとどまることはないが、子はいつまでも家にいる。だから、子があなたたちを自由な者とするなら、あなたたちは実際に自由な者となる」(ヨハネ8,31-36

神の子らの自由とは、基本的真理の欠如ではなく、キリストがご自分のいのちを与えることによって私たちに教え、証してくださった愛に生きるため、罪とその結果から自由であるということです。

「愛は真理に根ざしてのみ輝き、真理に根ざしてのみ真正に実践されるのです。真理は、愛に意味と価値を与える光です。真理は、理性の光であるとともに信仰の光でもあります。そして信仰と理性によって、知性は、愛の真理の自然的次元と超自然的次元に到達するのです。知性は愛の意味を、与えること、受けること、および交わりをもつこととして理解します。真理がなければ、愛は感傷へと成り下がってしまいます。愛は空洞化され、人々は自己本位な方法でそれを埋め尽くそうとします。真理をもたない文化において、愛はこのような致命的な危険性に直面します。愛は、変わりやすい主観的感情や考えのとりこになってしまい、『愛』ということばがみだりに使われ、歪曲され、まるで反対のことを意味するようになります。真理は愛を、関係性や社会性を奪う感情本位や、人間的で普遍的なゆとりを奪う信仰主義(fideism)の束縛から解放します。真理において、愛は、聖書が語る神への信仰の個人的かつ公的な次元を映し出します。神はアガペ(Agàpe)とロゴス(Lògos)、愛と真理、愛とことばであるからです」(ベネディクト16世 回勅『真理に根ざした愛』3

イエスはいのちである

イエスは、人類の罪のために、十字架上でご自分のいのち(御体と御血)を自由にお与えになり、この犠牲は永遠のいのちの源となりました。イエスの死は、私たちを罪から義とし、至聖なる三位一体との愛の関係によって私たちを完全に回復させる天の御父のゆるしを得させます。

「イエスはいわれました。私が来たのは、あなたがいのちを受けるため、しかも完全に、豊かに受けるためである(ヨハネ10,10参照)。イエスはまた私たちに『いのち』とは何であるかを説明してくださいました。『永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです』(ヨハネ17,3)。真の意味でのいのちは、私たちが自分だけでもっていることも、自分だけで見いだすこともできないものです。真の意味でのいのちとは、関係だからです。そして、完全ないのちは、いのちの源であるかたとの関係です。私たちが、決して死ぬことのないかた、すなわち、いのちそのものであり、愛そのものであるかたと関係をもつなら、そのとき私たちはいのちのうちにいます。そのとき私たちは『生きる』のです(ベネディクト16世 回勅『希望による救い』27

真の体をもって死から復活されたイエスは、永遠のいのちをもっており、すべての人がこの賜物を受けるために愛のうちにご自分に一致するよう望んでいることを私たちに垣間見せてくれます。

「アダムによらなければだれも死ぬことはなく、キリストによらなければだれもいのちに至ることはないからである。私たちは生きなかったがゆえに死ぬのである。が、主ご自身が生きたもうたがゆえに私たちもまた生きるのである。私たちが私たちのために生きていたときに、私たちは主に対して死んでいたのである。まことに主は私たちのために私たちに代わって死なれ、それがゆえに、主ご自身に対して生き、また、私たちに対しても生きたもうたのである。なぜなら、主が生きたもうているがゆえに、私たちもまた生きるのである。(・・・)それゆえ、かの日、つまり死が呑み込まれるいのちの日に、主ご自身は父の内に、私たちは主の内に、主は私たちの内にいたもうことを知るであろう。なぜなら、その時には、彼が私たちの内にあり、私たちが彼の内にあるという、今既に始まっている事柄が完成されるであろうからである」(聖アウグスティヌス「ヨハネによる福音書講解説教」75,3-4 『アウグスティヌス著作集』より)

キリストは、聖霊において御父との完全な一致に、私たちを今から引き入れるため、ミサの聖なるいけにえのうちにその御体と御血をもって私たちのもとに来られます。私たちがご聖体によってキリストに一致する時、私たち人間が受けるに値し、心が神を「見る」ために清められているなら、私たちはすでに永遠のいのちにあずかるのです。

「いのちのパンは私である。(・・・)このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世のいのちのためにわたされる私の肉である。(・・・)私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠のいのちを有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6,48-54

神の国のしるし<癒し>

福音宣教に常に伴ってきた奇跡や癒しは、私たちがキリストのみことばをより容易に信じ、キリストが私たちにもたらしてくださった神の国を受け入れることができるよう神が私たちに与えてくださる助けです。

「イエスは弟子たちの前で、この本には記さなかったほかの多くのしるしを行われた。これらのことを記したのは、イエスが神の子キリストであることをあなたたちに信じさせるため、そして信じてそのみ名によって生命を得るためである」(ヨハネ20,30-31

福音は、イエスが公生活において成し遂げられた多くの特別な癒しについて語っています。それらは、神が預言者たちをとおして行われた約束が実現していること、そしてイエス・キリストがすべての人を救うために神から遣わされたメシアであることのしるしです。

「そのときイエスは、病気、疾患(わずらい)、悪霊に悩まされている多くの人を治し、大勢の盲人の目を開けられたが、(ヨハネの弟子)二人に向かい、『あなたたちの見聞きしたことをヨハネに知らせに行け。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人は治り、耳の聞こえぬ者は聞こえ、死人はよみがえり、貧しい人には福音が告げられている。私につまずかぬ者は幸せである』といわれた」(ルカ7,21-23

イエスがもたらされた救いは、単に体だけでなく、罪の傷から癒されるべき霊魂にまで及びます。

「『中風の人に<あなたの罪はゆるされた>というのと、<起きて、床をとって行け>というのと、どちらがやさしいと思うか。人の子が地上で罪をゆるす権威をもっていることをあなたたちに知らせよう』。そして中風の人に向かい、『私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ』といわれた。病人は起きて、すぐ床をとり、人々の前を出ていった」(マルコ2,9-12

神は、今日も私たちの弱い信仰を支え、私たちが救いを願うよう助け、またご自分に対するより熱烈な生きた愛を起させるために、教会において癒し続けてくださっています。神は、そのために諸聖人の取り次ぎの祈りも使われます。しかし、悪魔は反対に私たちを真理からそらすために見せかけの奇跡を行うことができます。

「ここで敵対者たちは、異教の神々もまた同じように奇跡を行ったと言って反論するであろう。(・・・)異教の神々の社で起こったと伝えられる奇跡は、私たちの殉教者の記念堂で起こった奇跡と全然くらべようもないのである。仮に多少似た所があったとしても、ちょうどパロの魔術師がモーセに負けたと同じく、その神々は私たちの殉教者に負けたのである。さらに、汚れはてた高慢で一杯のダイモンどもは、自分たちが異教徒の神々になろうという邪悪な思いをいだいて、そういうわざを行ったのであるが、私たちの持つ奇跡は、殉教者たちが、否、むしろ神が彼らを協働させ、ないしは彼らの祈りに応える仕方でなしたのであり、その目的は信仰の進歩にほかならない。すなわち、私たちは殉教者を神々とは思わず、殉教者にとっても私たち自身にとっても神は唯一であると信じている」(聖アウグスティヌス「神の国」XXII,10 『アウグスティヌス著作集』より)

神の国のしるし<解放>

救いの到来とこの世における神の国の設立を完全に証するしるしの一つに、イエスがご自分のみことばの力と神性によって成された悪魔つきの解放があります。

「夕暮れになり日が落ちてから、人々は病人や悪魔つきをみな連れてきて、町じゅうの人が戸の前に集まった。イエスは病人を数多く治し、多くの悪魔を追い出されたけれども、悪魔たちはイエスがだれであるかを知っていたので、それがものをいうことをゆるされなかった」(マルコ1,32-34

「私が神の霊によって悪魔を追い出すなら、神の国は到来しているのである」(マテオ12,28

神の御子は、原罪のあと、アダムの子らが天の国に入ることを阻止し誘惑によって彼らの体だけでなく霊魂にも欺瞞的に影響を及ぼし続けている悪魔の力から人間を解放するためにこの世に来られました(使徒10,38参照)。

「イエス・キリストは、人間を罪の悪から解放するために来られました。この根本的な悪は、(創世記の中にすでにみられるように)『偽りの父』に始まります(創世3,4参照)。ですから、まさにその根元まで作用する罪の悪からの解放は、真理をとおして真理へ向かうものでなければなりません。イエス・キリストはこの真理を啓示しておられます。イエスご自身が「真理」であるからです(ヨハネ14,6)。この真理は、真の自由をもっています。それは、罪からの自由、偽りからの自由です。(・・・)うわべだけの構造変化は、社会を真の解放へと導くことはありません。人が罪や偽りに支配されている限り、そして激情やそれによる酷使、あらゆる形の抑制が支配している限り、真の解放はないでしょう(ヨハネ・パウロ2198883日「一般謁見」)

悪魔の存在と働きは、私たちの責任に対する弁解ではなく、私たちが罪との戦いにおいて自分の力ではなく神のあふれる恩寵に信頼し、再び主の御助けに駆け戻るようにさせるひとつの刺激です。

「確かにサタンは、信じ込ませる狡猾さをもっている。もしサタンが話し、神が黙されるならば、あなたは言い訳を並べ立てるだろう。しかし、あなたの耳は、警告される神とほのめかす蛇との間にある。なぜ、耳は蛇の方へ向き、神に対して閉じてしまうのか?サタンはひそかに悪を抱かせるのをやめない、しかし神もあなたに善いことを勧めることを決してやめられない。サタンはあなたの意志に反して強制する力をもっていない。サタンに対して同意するか同意しないかはあなた自身の権限によるのである。もしあなたが何か悪いことをしたなら、たとえサタンの扇動によってであってもサタンは放っておき、自分の罪を認めて神のあわれみを受けるために、自分を非難せよ。ゆるしを得ることのできない者を非難しようとするのか?自分自身を非難せよ。そうすれば許されるだろう」(聖アウグスティヌスCommento al Salmo 91,3

御父の王国の王であるキリスト

世界に愛の王国を広めるという発意は、ご自分のひとり子に天と地を和解させる力をお与えになった天の御父のみ旨からなります。

「主イエス・キリストの父である神をたたえよう。神はキリストにおいて天上から、私たちを霊のすべての祝福で満たされた。神は世の創造以前から、キリストにおいて私たちを選び、愛によってご自分の前に聖である者、汚れない者とするために、み旨のままに、イエス・キリストによって私たちをご自分の養子にしようと、予定された。(・・・)それは、天にあるもの地にあるものすべてを、唯一のかしらであるキリストの下に集めるという奥義であった」(エフェゾ1,3-6.

キリストは、御父のみ旨を第一とされ、すべての人の救いの計画を実現するために完全な忠誠と献身によってこのみ旨を追求されました。ですから、キリストは、所有による王ではなく、このように仕える王なのです。

「そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる神に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。(・・・)すべてをキリストの下に置いたというときは、キリストにすべてを服従させたお方が含められていないことは明らかである。すべてのものがその下に置かれるとき、子自らも、すべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは神がすべてにおいてすべてとなるためである」(1コリント15,24-28

神の国は、すべての人がキリストによって義とされ、愛のうちにキリストに一致する時、完全に完成するでしょう。そして、ついに御ひとり子と同じように彼らのうちに光り輝く御父のみ顔を見ることができるでしょう。

「彼は父なる神に国を渡したまう時」というのはどういう意味であろうか。しかし、神と人の仲保者である人間キリスト・イエスが、今、信仰によって生きているすべての正しい人を支配したまうのであるが、さらに彼らを、同じ使徒が「顔と顔を合わせて」と語る直視へ導きたまうであろうから、「御子は父なる神に国を渡す時」とは、いわば、信ずる人々を父なる神の観想へ導きたまうであろう時、と言われるのである。(聖アウグスティヌス「三位一体」I,8,16 『アウグスティヌス著作集』より)

もはや「しもべ」ではなく王の「友人」として

イエスが王であることは、私たちと神の間の距離、つまり私たち人間と神の身分、私たちの罪のみじめさとキリストの聖性・清らかさという差異を広げるものではなく、イエスの偉大さと力を示すものであり、私たちが洗礼によっていただいた恵みについてよく考えるよう導くものです。

「これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない。しもべは主人のしていることを知らぬものである。私は父から聞いたことをみな知らせたから、あなたたちを友人と呼ぶ。あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行って実を結び、その実を残すためである。(・・・)私があなたたちに命じるのは互いに愛し合うことである」(ヨハネ15,15-17

「友のためにいのちをあたえるほど大きな愛はない」と主はいわれます。天の国では、神は、婚宴から戻って目を覚ましていたしもべたちを見つけ、自らが給仕し彼らとともに楽しむ家の主人のようでしょう。

「神は、その愛と英知によって、自分を啓示し、また意志の奥義(エフェゾ1,9参照)を明かにしようと望んだ。それによって人々は受肉したみことば・キリストを通じて、聖霊において父に近づき、神性に参与するものとなる(エフェゾ2,182ペトロ1,4参照)。実際、この啓示によって、見えない神が人々を自分との生命の交わりに招き、これにあずからせるために無限の愛をもって、あたかも友に対するように人間に話しかけ、かれらと住居をともにしている」(第2バチカン公会議『神の啓示に関する教義憲章』2

神は、キリストのうちに私たちに近づかれます。それは、私たちから自由を奪ったり、恐れや畏敬の念を抱かせるためではなく、私たちにご自分の存在を感じさせ、真の解放の道を知るよう助けるためです。この真の解放とは、日々直面しなければならない犠牲や多くの苦しみの中でも、真理と喜びのうちに神と一致して愛する自由です。これが、すべての解放と神のおきての意味なのです。

「彼は私たちに神の子となる力を与えたのであるから(ヨハネ1,12参照)私たちはもはや奴隷ではなく、子なのである。つまり、表現は難しいが、ある不思議なしかも真実な仕方で、私たち奴隷(たる僕)は奴隷としてでなくあることができるのである。すなわち、締め出されなければならない恐れをもち、その恐れに捕えられていて『いつまでも家にいることのできない』奴隷としてではなく、清い恐れをもち、そうした清い恐れのなかにあって『彼の主人と一緒に喜ぶ』奴隷としてあることができるのである。しかし、奴隷である私たちをそうした奴隷として仕えなくてよいようにしてくださったのは主である、ということを私たちは悟ろうではないか。(・・・)なぜなら、私たちを人間とするのみならず、義しい人とするのは主であって、私たち自身ではないからである」(聖アウグスティヌス「ヨハネによる福音書講解説」85,3 『アウグスティヌス著作集』より)

私たちの父よ...み国がきますように

あらゆる祈りのモデルとしてイエスが私たちに教えてくださった主の祈りの中で、私たちが「み国がきますように」と唱える時、何を願っているのでしょうか。

「神の国は私たちに先だってあり、人となられたみことばにあって近いものとなり、福音全体をとおして告知され、キリストの死と復活によって到来しました。その神の国は、イエスの最後の晩餐以来感謝の祭儀の中でも到来しており、私たちのただ中にあります。神の国はまた、キリストが御父にこれをお返しになるときに栄光を帯びて到来するでしょう」(『カトリック教会のカテキズム』n.2816

たとえ神の国が、最終的なキリストの到来によって決定的に完成するものであっても、私たちは、正義の時が早まるようにとは願わず、むしろ、主が私たちをキリストのいのちにあずかるにふさわしいものとしてくださることを願っています。聖チプリアーノは、このように教えています。

「事実、神がみ国を支配しておられないときはなく、永遠から存在し、その存在をやめることのない神の支配が、いつか始まるということはないのである。したがって私たちは、自分たちに約束され、キリストの血と受難によって得られた、私たちが支配する国がやってくることを神に祈り求めるのである。それは世の中にあって奉仕していた私たちが、後にみ国を治められるキリストの支配のもとに支配するように、という願いである。キリストはこのことを約束して、『さあ、私の父に祝福された人達、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい(マテオ25,34)』と言っておられる」(カルタゴの聖チプリアノDe oratione dominica, 13 『聖務日課(読書)』訳より)

神の国の到来は、罪に対する戦い、つまりあらゆる形のエゴイズム、不正、悪事、暴力、不純、偽りとの戦いを伴います。それは私たちのうちに聖霊が住まわれるためです。

「清い心だけが何の恐れもなく『み国が来ますように』ということができる。そのようにいうためには、『あなたたちの死すべき体を罪に支配させるな』(ローマ6、12)というパウロの教えに倣っていなければならない。行い、思い、ことばにおいて清さを保つものは、神に『み国が来ますように』ということができるのだ」(エルサレムの聖チリロCatechesi mistagogiche, 5,13

この祈りは、花婿であるキリストと花嫁である教会の間に交わされる愛の表現であり、私たちの希望の中心におられ、すべての正しい霊魂が喜びをもって待ち望んでいるお方に会うという熱烈なあこがれを表明しています。

「イエスは来ておられます。ご自分を信じて、受け入れる人々のうちに住んでおられます。そこで会衆は聖霊に導かれて、イエスに対して、もっと近くに来てくださいという切迫した願いをささげます。『来てください』(黙示録2217a)。あたかも婚姻が完成することを心から待ち望む『花嫁』(2217)と同じように。(・・・)『アーメン、主イエスよ、来てください』」(ベネディクト162012912日「一般謁見」カトリック中央協議会訳より)

ユダヤ人の王 ナザレのイエス(I.N.R.I.)

「ピラトははり札を書いて十字架の上にかかげさせたが、それには『ユダヤ人の王、ナザレトのイエス』と書いてあった。イエスが十字架につけられた所は町に近く、はり札はヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたので、多くのユダヤ人がそれを読んだ。ユダヤ人の司祭長たちはピラトに向かい、『ユダヤ人の王と書かずに、ユダヤ人の王だと自称したと書いてください』といったが、ピラトは、『すでに書いたことは書いたことだ』と答えた」(ヨハネ19,21-23

十字架は、愛である神の王としての崇高さを示しながら、人類の救いの務めに従事するキリストの王座です。イエスは十字架から、私たちを神に引き寄せ、愛によって統治しておられます。なぜなら、イエスは罪人のためにご自分のいのちをお与えになったために、すべての人を御父と和解させる力をもっておられるからです。

「私は天と地の一切の権能を授かっている」(マテオ28,18)。(・・・)それは、永遠のいのちを与え、悪から解放し、死の支配を打ち破る、神の権能です。またそれは愛であるかたの権能でもあります。このかたは悪から善を引き出し、固い心を和らげ、激しい争いに平和をもたらし、深い闇の中に希望の光をともすことができるからです。(ベネディクト16世 20091122日「お告げの祈り」カトリック中央協議会訳より)

イエスの十字架の死の宣告に、王たるメシアであるキリストの真理が示されています。キリストは、預言者によって告げられ、ユダヤ人だけでなくキリストの愛と真理のみことばを受け入れるすべての人の救いのために御父から遣わされたのです。

「それゆえ、キリストはユダヤ人の王であるが、心の割礼による、霊によるユダヤ人の王であり、彼らの賛美は人から出たものではなく、神からのものである(ローマ2,29参照)。また彼らは、女奴隷とその子らを家から追い出した、私たちの永遠なる自由人の母、霊的なサラに属するものである(ガラツィア4,22-31参照)」(聖アウグスティヌス「ヨハネによる福音書講解説教」117,5 『アウグスティヌス著作集』より)

私たちはみな、自由に神の国を受け入れ、キリストの十字架の恩恵によって私たちのうちに罪が決定的に敗れたことを認めることができます。

「この目標に達するまでの道のりは長く、近道を通ることはできません。実際、すべての人が、自由をもって、神の愛の真理を受け入れることが必要です。神は愛であり、真理です。そして、愛も真理も、決して強制することはありません。愛と真理は心と精神の戸をたたきます。そして、彼らが中に入ると、平和と喜びがもたらされます。これが神の支配のあり方です」(ベネディクト1620061126日「お告げの祈り」カトリック中央協議会訳より)

元后聖マリア

洗礼を受けたすべての人がその神秘の体、教会の一員としてイエス・キリストの王位にあずかっています。しかし、教会が数世紀前から元后として祈願している神の御母、至聖なるおとめマリアは特別な方法でこれに与っています。

「原罪のいかなる汚れにも染まずに守られていた汚れない処女は、地上生活の道程を終えて、肉身と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主からすべてのものの女王として高められた。それは、主たる者の主であり(黙示録19,16参照)、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよりよく似たものとなるためであった」(第2バチカン公会議『教会憲章』59

至聖なるマリアが元后であるのは、二つの主な理由に基づいています。彼女は天の王の母であり、幼き王を産んだ方であることから当然元后であるといえます。またさらに、聖マリアのうちに、最初にどの被造物よりもイエスのみことばが実現されたからです。

「私の試みの間あなたたちは絶えず私とともにいたのであるから、父が私のために王国を備えられたように、私もまたあなたたちのために王国を備えよう。あなたたちは私の王国の食卓で飲食し、また王座についてイスラエルの十二族をさばくであろう」(ルカ22,28-30

マリアにおいて神の母である特権は、試練に耐える徳とともにあり、この徳をもって彼女は救いの業における救援者(共贖者)となったのです。

「マリアはキリストを懐胎し、生み、育て、神殿で父に奉呈し、十字架上で死去した子とともに苦しむことによって、従順、信仰、希望、燃える愛をもって、人々の超自然的生命を回復するために、救い主のわざに全く独自な方法で協力した。このためにマリアは恩恵の世界においてわれわれにとって母であった」(第2バチカン公会議『教会憲章』61

聖なるおとめマリアが、「元后」「あわれみの御母」として祈願されているのは、英知と愛によってこの世を治め、全宇宙の運命を支配しておられる方の后として、また母としてキリストの王座のもとで私たちのために取りなしてくださっているからです。

「マリアは、地上の歩みにおいても天の栄光においても、御子と独自のしかたで結ばれているがゆえに、元后です。(・・・)マリアは、世に対する神の責務、世に対する神の愛にあずかります。(・・・)マリアはどのようなしかたで奉仕と愛の元后としてのわざをなさるのでしょうか。子である私たちを見守ることによってです。この子らは、マリアに向かって祈ります。マリアに感謝し、その母としてのご保護と天からの助けを願います道に迷い、悲しく辛い人生のさまざまな出来事に襲われて、苦悩と悲しみに打ちひしがれながら。平安のときも、生涯の暗闇の中でも(・・・)」(ベネディクト162012822日「一般謁見」カトリック中央協議会訳より)

世界中に行って神の国を告げ知らせよ

神は、使徒たちの行う福音宣教をとおして、神の国に属するものとなるように人々を招いておられます。それは、信仰によって受け入れられた真理のみことばが、救いの実をむすぶためです。

「天の国のこの福音が、全世界にのべ伝えられ、諸国の人々に向かって証明されるとき、そのとき終わりは来る」(マテオ24,14)。

「キリストは苦しみを受けて、三日目に死者の中からよみがえり、そのみ名によって、エルサレムを始め諸国の民に、罪のゆるしを得させる悔い改めがのべ伝えられると記されている。あなたたちはこれらのことの証人である」(ルカ24,46-48)。

「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28,19)。

神はすべての人が救われ、真理を深く知ることを望んでおられます(1ティモテ2,4参照)。そのため教会は主の命令に従って、世界のあらゆるところで、迫害や敵意を恐れることなく常に福音を告げしらせ、証しするよう精いっぱい努力するのです。

「教会はまずエルサレムから拡がり、そしてユダとサマリヤで多くの者たちが信じると、福音を宣べ伝える者たちによって他の国民にまで進んでいった。キリストが彼らを言葉によって灯火のようにととのえ、聖霊によって燃え立たせたからである。キリストは彼らに、『身体を殺しても、魂を殺すことのできない者たちを恐れるな』といった。彼らは恐れによって冷たくならないように、愛の火によって燃えた。最後に受難前および復活後にキリストを見たり聞いたりした弟子たちによってだけでなく、彼らの死んだ後も、彼らの後継者たちによって、福音は恐ろしい迫害やさまざまな苦難や殉教者の死にもかかわらず全地に宣べ伝えられた。神は、しるしや証拠、聖霊のさまざまな力や賜物によってそれを確証した」(聖アウグスティヌス「神の国」XVIII,50 『アウグスティヌス著作集』より)

福音は、今日も教会によって告げ知らされるべきものです。そして教会は、あらゆる状況において、人よりも神に従うことが最良であることをわきまえ、勇敢に、そして忠実にこれを告げ知らせなければいけません。

「イエスが、宣教に協力するよう数人の弟子たちを直接呼ばれたことは、イエスの愛の姿を表しています。(・・・)彼らの弱さや限界を知りつつも、さげすむことなく、むしろ派遣された者としての尊厳を彼らにお与えになりました。(・・・)使徒たちは、お金や快適さに執着してはいけません。(・・・)時には、拒否され、そればかりか迫害にあうことすらあるでしょう。しかし、これは使徒たちを驚かせるものではありません。使徒たちは、成功を気にすることなく神に任せ、イエスの名によって話し、神の国を伝えていく必要があります。(・・・)人がいってもらいたいと思っていることを説くのではなく、神がいわれることを説くことによってです。これは、これからも存続する教会の使命です。『教会は、権力者たちがいってほしいと思っていることを説くのではない。たとえ称賛や人間的権力に反するするとしても、教会の基準は、真理と正義を説くことにある』のです」(ベネディクト162012715説教)