神への真の信仰

信仰とは何か

一見、信仰とは、私たちが誰かを、または何かを信頼することをいうようです。私は、ある人を信頼し、その人のいう事を信じ、その人を信用します。また自分自身や、目的達成のために使う手段を信用することもできます。例えば、私を行きたい場所へ運んでくれる自分の新車を信用するということです。しかし、この種の信仰は「当然のこと」ともいえるものであり、さまざまな理由から、神への信仰とは違うものといえます。なぜなら、これは心理的な行為であり、自分を巻き込んではいても、根本から自分を変えるものではなく、自分の視野を超えて真の実在へと開くものではないからです。また霊的な行為ではないので、そこには私の中で働く神の霊は存在しません。私が信頼を置く人が忠実であり続けるという保証を誰がしてくれるでしょうか。どうして自分の新車が突然の故障もなく私を目的地へ運んでくれると確信できるでしょうか。

神への信仰とは、確かに、「私は信じたい。私は神であるお方を信頼している」という内面的な意志の行為ではありますが、漠然とした神を信じるのではなく、神の実質、神の真理を信じる知性の行為でもあります。ですから、真の信仰とは、現実に存在するものの上に築かれており、それゆえ、信仰は先立つものであり、また真理に続くものといえます。他のことばでいうなら、私たちは真理を信じており、ご自身について、人について、また万物について真理を語られる神を信じているということです。聖父と聖子と聖霊である神を信仰するということは、真理(イエス・キリスト)を信じることであり、実際に私たちの救い、私たちのいのちは、聖父・聖子・聖霊の存在と働きの真理によるものだと信じることです。信仰をもつということは、何よりまず、神が忠実なお方であることを信じ、そして私たちの信仰はこの神の忠実さに基づいていることを信じることを意味します。

信仰は希望するものの保証であり、見えないものの証拠である。信仰をもっていたから昔の人々は賞賛を受けた。信仰によって私たちは、万物が神のみことばによって創られ、見えるものには見えない原因があることを理解する。信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、それによって義人と証明された。神が彼のささげ物を証明されたからである。そして信仰によって彼は死んでも今なお語っている。信仰によってヘノクは死を見ないように移された。『神が彼を移されたので、彼は見つからなかった』。移される前に、彼は神に嘉されていると証明された。信仰がなければ神に嘉(よみ)されることはできない。神に近づく者は、神が存在されること、神を求める者に報いを賜うことを信じねばならぬからである」(ヘブライ11,1-6)

2009年、カトリック教会は、ベネディクト16世の招きによって聖パウロの生誕2000年を祝います。信仰の使徒である聖パウロが私たちと共に歩んでくださることでしょう。

「信仰はただ一つであり、話すことの得意不得意によって信仰を豊かにも貧しくもせず、それは常に同じである。確かに、知性の多様性によって、多かれ少なかれ(信仰の真理の)広い知識をもつことができるが、しかしそれは、決して信仰の本質的な中身を変えることを意味することではない。つまり、神を、しかも創造主で御父である神を他の神に作り上げてしまうということ、または唯一の御子を他のキリストに作り上げてしまうことを意味するのではない」(聖イレネオ『異端反駁』I,2)

信者とは誰か

信者とは、教会による神のみことばの教えに従う、洗礼を受けた人です。神のみことばは、人によって伝えられています。なぜなら、はじめに神が人となられて人間のことばで私たちに語られ、そしてイエスが使徒を選び、世界中に教え説くために彼らを派遣されたからです。誰も自分自身に洗礼を授けることはできません。他者、つまりイエス・キリストを信じる者、使徒継承の教会から洗礼を受けます。

今年、教会で荘厳に祝われている使徒聖パウロは、使徒たちが告げたことばを信じる必要性を強調しています。

「それなら彼らは、まだ信じなかった者をどうして呼び求められよう。まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう。『よい便りをもたらす者の足は美しい』と書き記されている。だがみなが福音に従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれが私たちの宣教を信じたか』といっている。それゆえ信仰は宣教により、宣教はキリストのみことばによる」(ローマ10,14-17)

同様に、福音史家のマテオは、みことばを信じることができないのは、聞く者の心のかたくなさが原因であると教えるイエスの説教を取り上げています。

「こうして、彼らにイザヤの預言は実現した、〈あなたたちは聞いても悟らず、見つめても認めようとせぬ。この民の心はにぶくなった。耳をふさぎ、目を閉じた。目で見ず、耳で聞かぬように、心で悟らぬように、改心して私にいやされぬように〉。

だがあなたたちの目は見えるから幸せであり、耳は聞こえるから幸せである。まことに私はいう、多くの預言者と義人は、あなたたちの見ていることを見たいと強く望んだが見られず、あなたたちの聞くことを聞きたいと思ったが聞けなかった」(マテオ13,14-17)

耳で聞くだけでは十分ではありません。聞いた福音を実行することを望み、信仰をもって、信じる人(信者)たちに耳を傾けることが不可欠です。

預言者イザヤの書に、「信じないならば、理解できないだろう」と書かれています。信者とは、神のみことばを理解する人です。なぜなら、その人は自分に語られる方(神)を信じているからです。それでもやはり、福音を完全に理解せずにそれを実行することはできないでしょう。

「信じないならば、理解できないだろう」(イザヤ7,9 in ver. LXX)。必要なのは、聖書を、神の真意を伝えるものとして確かに信じることです。なぜなら、そのような方法によって、書かれている真理の知性にたどり着くことができるのですから。神が私たちに啓示された真理にたどり着くためには、象徴を越える必要があるからです。それゆえ、第一に、細かく正確にそこに含まれる意味を研究しながら、単純な信仰をもって聖書を信じることが必要です。なぜなら『(聖書は)みな神の霊感を受けて書かれたものであって、(・・・)有益である』(2ティモテ3,16)からです。(・・・)実際、信仰は、私たちが説教という神の賜物をとおして、真理の完全な確かさによって聞いたことに対する同意であって、あやふやなものではないのです」(聖バジリオIn Is. VII 198)

聖大バジリオは、信者とは、自分自身や自分の知性ではなく、聖書の知性を信じるものであることを私たちに教えています。理解する能力は、信じないものには隠されています。なぜなら、信じないために神のみことばに心を閉ざしているからです。

誰を、そして何を信じているのか「信仰の規則」

私たちは、信仰とは宗教的な感情ではなく、神からいただいた賜物であり、私たちが耕し、育てていくべきものであることを理解しました。私たちは、漠然とした神ではなく、イエス・キリストによって啓示された神を信じています。私たちが信頼するのは、イエスにおいてであり、そのみことばと教えにおいてです。イエスは、私たちのためにいのちを与え、復活され、御父の右の座に上がられました。私たちは、三位一体のみ名によって洗礼を受け、洗礼においていただいたものを信じています。それは、神が、処女マリアの胎において受肉されたことを信じること。イエスの十字架の犠牲は、神の愛の自由で積極的な表明であることを信じること。聖なる方でありながら、私たちを罪の宣告から解放するために、罪人の位におかれたイエスを信じることです。イエスは、私たちの信仰の他に何も見返りを求められず、ただ私たちが、十字架と復活の道をイエスに従って行くことに専念することを望まれました。聖パウロは、すでにキリスト信者たちにこのように書いていました。

「(・・・)あなたはエフェゾにとどまり、ある人々に異なる教えをのべさせぬようにせよ。信仰に基づく神の恵みの分配には何ら役にたたず、むなしい議論をひき起すばかりの果てのない系図と作り話に耳を傾けさせぬようにせよ。おきての目的は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰から生じる愛を広めることである。ある人々はこのことから離れ、むなしいことを語り、自ら律法の教師と称しているが、自分でいっていることも主張していることも知ってはいない」(1ティモテ1,3-7)

「しかし聖霊は、後の時にある人々が信仰を遠ざかり、惑わしの霊と悪魔の教えにつくであろうと明らかに仰せられている。彼らは偽善の偽りものに惑わされ、良心を焼き鉄(がね)で焼かれた者である」(1ティモテ4,1-2)

私たちが毎日曜日ミサの中で唱えているクレドは、信仰の象徴であり、何を信じているかだけでなく、信じている方が誰であるかを要約しています。このクレドは、私たちの信仰の規則であり、カトリックの信仰の基点です。これは、紀元数世紀、当時、福音やイエスが使徒たちに教えたことではなく、規則もなく自分たちの好き勝手に信じていたキリスト信者たちからいくつかの論争が起こり、これを終わらせるために、教父たちによってつくられたものです。

「キリスト者にとって第一は、信仰である。ー聖ペトロがキリストに告白し、『ペトロ』という名を授かったように(マテオ16,16-18参照)ーまさに岩のごとき信仰の堅固さ、確固とした堅実さを手に入れたペトロのような信仰である。このようにあなたも岩となるよう努力せよ。この岩を外に探すのではなく、あなたのうちに見つけよ。あなたの岩は、あなたの行いであり、あなたの精神である。この岩の上にあなたの家は建てられる(マタイ7.24-25参照)。悪い霊から解き放たれたどんな嵐も、それを倒すことはできない。あなたの岩は信仰である。そして信仰は、教会の土台である。あなたが岩となるなら、教会のうちにいるだろう。教会は『岩』の上に建てられているからである。あなたが教会のうちにいるなら、『地獄の門はあなたに勝つことはできない』。地獄の門は、死の門であり、それが教会の門となることは決してない!」(聖アンブロシウスDe Sacram.I-II)

私たちはみな、カトリックの信仰の証人たちを知り、彼らの模範と励ましを受けました。私たちは、新しい世代に対して、同様の責任をもっています。しかし、これは、自分たちだけで行うことではなく、「クレド」という信仰の規則に導かれた全教会とともに行うのです。

挙式され祝われる信仰

信仰は、人間の心の奥深くに生きていますが、同時にまた、他の人や親、友人、キリスト教共同体から伝えられ、受けたものでもあります。私たちは、幼児の洗礼式をおこなう時、私たちの信仰を祝い、幼児にそれを伝えます。幼児は、信仰と放棄の宣言に自分の声で答えることができませんが、それを共同体が、両親、代父母が行うのです。それは、聖父・聖子・聖霊の神を信じ、悪とその誘惑を放棄する共同体です。幼児はこの共同体によって挙式され祝われる信仰を受け取ります。洗礼とは、単なる信仰の表明ではなく、秘跡であり、今日洗礼を受けた幼児や私たちだけでなく、そこに参加している人たちの信仰に対するイエスの有効な働きです。なぜなら、洗礼の秘跡において、イエス・キリストが働かれ、カトリック教会がキリストに一致するからです。秘跡をとおして主ご自身が教会のうちに働かれます。このことからも、イエスに一致するということは、使徒継承のカトリック教会に一致することを意味するのです。

「司教と長老たちなしには何事も行ってはなりません。自分たちだけでこっそり行ったことを、何か正しいことを行ったかのように錯覚してはなりません。むしろ、すべての事を共同で行いなさい。すなわち、一つの祈り、一つの懇願、一つの精神、愛と非の打ち所がない喜びの内に一つの希望に生きるのです。これこそイエス・キリストです。彼に勝るものは何もありません。皆一緒に、神の唯一の神殿に向かうかのように、一つの祭壇のもとに集められるかのように、一人のイエス・キリストのもとに走りなさい。」(アンティオキアの聖イグナチオLettera ai Magnesi『聖務日課(読書)』より)

日曜日のミサ聖祭にあずかることは、私たちの信仰の源であり、信徒共同体におけるイエスとの一致の源です。

「さて、主の囚人となった私はあなたたちに勧める。あなたたちは召されたお召しにかなうように生き、すべての謙遜と柔和と寛容をもって愛によって忍び合い、平和の結びによって霊の一致を守るように務めよ。体は一つ、霊は一つである、あなたたちが召し出しによって一つの希望に召されたのと同様に。主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は一つで、すべてのものの父であり、すべてのものの上にあり、すべてのものの上に働き、すべてのものの内にいます」(エフェゾ4,1-6)

使徒聖パウロは、全共同体が信じ、挙式して祝う一つの信仰のうちに一致するよう招いています。全教会は、まるで一つの体、一つの霊であるように主に一致しています。教皇は、聖ペトロの後継者として「私の羊たちを牧せよ」という主イエス・キリストの召し出しに答えながら、信仰の一致、教会の一致を目に見える形で表しています。すべてのよいキリスト者たちは、キリストのしもべであり、使徒の長の後継者である教皇の権威のもとに一致し、同じ信仰のうちに一致して、毎日曜日にミサ聖祭にあずかり、自分たちの信仰を祝います。

信仰の模範である聖母

最後の一息まで完全に生きた信仰は、神の賜物であり、私たちが神に求めるべきものです。聖母は、これにおいて私たちに先立って偉大な信仰を表されたことから、私たちの見習うべき模範といえます。天使のお告げを信じ、イエスの誕生や布教、そして十字架の足下まで、聖母は、私たちの知らない、思いもよらない道から救われる神の力を信じました。

「エリザベトは聖霊に満たされて声高くいった、『あなたは女の中で祝福された方で、あなたの胎内に実るものも祝福されています。主の御母が私を訪問してくださったのですか。これほどのことがどうして私に恵まれたのでしょう。なんとしたことでしょう、あなたのあいさつのみ声が耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は』」(ルカ1,42-45)

聖母は信じました。もし彼女とともに主のみことばを信じるなら、私たちも幸せなものとなるでしょう。神の業を完全に理解することはできません。しかし、聖母において、彼女の信仰によってそれが可能になります。教父たちは、神の御母の偉大さについて、そして彼女の信仰について大変多く書いています。

「おお、神の御母マリアよ、全世界の敬うべき宝、消えない灯り、純潔の冠、健全な教理の笏、ゆるぎない神殿、どこにも収めることできないお方の住まい、母であり処女であるあなた。それゆえ、福音において、ほむべきかな主の名によりて来る者(マテオ21,9)と呼ばれる。おお、あなたはその聖なる処女の胎に無限にしてはかり知れないお方を迎えられた。あなたをとおして至聖なる三位一体はたたえられ、崇められる。あなたをとおして尊い十字架は世界中から祝われ、崇められる。あなたをとおして天は歓喜し、あなたをとおして天使と大天使たちは大いに喜ぶ。あなたをとおして悪魔たちは追い払われ、あなたをとおして誘惑者なる悪魔は天から落ちる。あなたをとおして堕落した被造物は天に導かれ、あなたをとおして偶像の毒に犯されたあらゆる被造物は真理を知る。あなたをとおして聖なる洗礼は信じる者に与えられ、あなたをとおして奉献の油が与えられる。あなたをとおして全世界の教会は建てられ、あなたをとおして人々は痛悔へ導かれる。おお、他になんといえるでしょう。あなたをとおして神の御ひとり子は暗やみの中にいる人々に光のように輝き、あなたをとおして預言者たちは語った。あなたをとおして死者は復活し、あなたをとおして使徒たちは救いを告げた。あなたをとおして王たちは聖なる三位一体の名によって国を治める。このようにあらゆる称賛に値するものが、マリアの他にいるだろうか。彼女は、母であり処女である。なんと驚くべきこと!この奇跡は驚きで満たす」(アレキサンドリアの聖チリロInno a Maria, Hom. 4, n. 1183)

聖チリロのこのすばらしい聖母賛歌の後につけ加えることばはありません。神の業に対する聖母の信仰は、彼女のうちに完成し、明かにされました。

私たちの信仰は、神への信仰に生きた聖母を見つめることによって成長します。私たちも聖母と同じ信仰に生きるように、そして私たちを導き守って下さる聖母のあとを歩んでいくよう呼ばれています。

信じることと罪を放棄すること

信仰は、実際の生活とかけ離れたアンティミスムの行為ではありません。私たちは、聖父・聖子・聖霊の神を信じており、神は、私たちに永遠のいのちの道、善の道、救いの道を示してくださっています。私たちは、イエスのことばと教えを信じています。これらは、私たちが実行するために与えられたものです。善であるお方を信じるということは、よいことを行い、よい生き方をするということであり、言い換えるなら、悪を避け、悪の誘惑を退けるということです。「決意するものは断ち切る」つまり、善(神)のために決意し、悪を断ち切るということです。

「私を〈主よ、主よ〉と呼びながら、なぜ私のいうことを行おうとしないのか。私のところに来て、私のいうことを聞いて行う者は、どういう人か教えよう。それは、土地を深く掘り、岩の上に礎を置いて家を建てる人のようである。洪水になって、奔流がその家を覆っても、しっかり建っているから揺るがない」(ルカ6,46-48)

「私に向かって〈主よ、主よ〉という人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る。その日多くの人が私に向かって〈主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか〉というだろう。その私ははっきりと言おう、〈私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ〉」(マテオ7,21-23)

洗礼の秘跡の儀式の中で、クレドの信仰宣言は、悪魔とその誘惑の放棄に続いて行われます。信仰が抽象的知識の表明や感情的なアドリブになってしまわないように、クレドを思い出し、深く考えることはよいことです。信じるとは、また霊的戦いの苦労を謙遜に受け入れながら、善のために決意し悪を退けることも意味しています。

<幼児洗礼式>

ご両親と代父母の皆さん、神は洗礼の秘跡によって この子どもにあたらしい いのちを与えてくださいます。あなたがたは、そのいのちが生長するよう教会の信仰の中で子どもを育てて行く決心をしておられます。あなたがた自身が受けた洗礼を思い起こし、罪を捨てる決意と、キリストに従う信仰を表明してください。

司祭:あなたがたは、神の子の自由に生きるために罪のわざを退けますか。

両親・代父母:退けます。

司祭:罪に支配されることがないように、悪を退けますか。

両親・代父母:退けます。

司祭:神に反する すべてのものを退けますか。

両親・代父母:退けます。

司祭:天地の創造主、全能の神である父を信じますか。

両親・代父母:信じます。

司祭:父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じますか。

両親・代父母:信じます。

司祭:聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じますか。

両親・代父母:信じます。

(カトリック儀式書 幼児洗礼式より)

洗礼によってイエスに一致するということは、十字架にあずかるということでもあります。実際、洗礼によって、私たち古い人間は、キリストとともに十字架につけられ、三度の放棄と三度の信仰告白によって悪い情欲は釘付けにされ、罪の奴隷から解放されたのです。

信仰の試練

信仰とは、神を信じることです。試みにあっているのは信仰ではなく、信仰において誘惑にあっていると思っているその人であり、信じないよう誘惑されているのです。神は、この誘惑をお許しになりますが、神が私たちを誘惑されるわけではありません。神は、ご自分の助けによって私たちが誘惑を乗り越え、手柄を手に入れることを願っておられます。

「だからしばしの間いろいろの苦しみに会うにしても、そのために喜び勇むがよい。火で試されるはかない黄金よりも尊い信仰の試練は、イエス・キリストの現れの日、誉れと光栄と名誉のもととなるであろう」(1ペトロ1,6-7)

「愛する者よ、私たちの共同の救霊についてあなたたたちに手紙を書こうと心がけていたが、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰のために戦えと勧める手紙を書く必要を感じた」(ユダ1,3-4)

「私の義人は信仰によって生きる。もしそれをやめれば、私の心はその者を喜ばない」(ヘブライ10,38)

「あなたたちの中にいたとき、試練に会わねばなるまいとあらかじめいっておいたが、はたしてそうなったことは知っているとおりである。私はもう耐えきれなくなって、あなたたちの信仰を知ろうとして人を送った。あなたたちが試みる者に誘われ、私たちの苦労がむだになるのを恐れたからである」(テサロ3,4-5)

もし誘惑と戦わないなら、信仰を失うこともあり得ます。また同様に、信頼をもって神に助けを願わなければ、誘惑を乗り越えられないことも事実です。それゆえ、キリスト信者は、試みにあい、信頼して神の助けを願うなら、信仰において成長するのです。しかし、自分や他の人を頼みとし、神への信仰宣言によって信仰を守らないならば、傲慢でおうへいな者になり、神の地位をねらう者のえじきとなって、失意と恐怖に落ちてしまいます。

「救いに必要なことはすべて主から与えられた賜物であると自覚していた使徒たちは『主よ、私たちの信仰を増してください』(ルカ17,5)と信仰の賜物を願いました。彼らは、救いが、自分の思いどおりに手に入るものではなく、神の賜物として与えられるべきものであることを自覚していたのです。『シモン、シモン、サタンはあなたたちを麦のようにふるいにかけることができたが、私はあなたのために信仰がなくならぬようにと私の父に祈った』(ルカ22,31-32)。人類の救いの創始者である主は、ペトロにこのようにいいながら、私たちの信仰がどれほどはかなく弱いものであるか、また、神の助けによらなければ、自分だけではどれほど足りないかを私たちに教えておられます。(・・・)ペトロでさえ、信仰を失わないために主の助けが必要であったなら、非常に思いあがった者、また、信仰を守るために主の日々の援助は必要ないと思っている盲目な者はどうなるでしょうか?(・・・)使徒パウロによれば、私たちが大きな誘惑に耐えることを可能にする、より勇敢な忍耐は、私たちの力によるものではなく、神のあわれみと軽減の業によるものなのです。実際このようにいっています。『あなたたちは人の力を超える試みには会わなかった。神は忠実であるから力以上の試みには会わせたまわない。あなたたちが試みに耐えそれに打ち克つ方法をも、ともに備えたもうであろう』(1コリント10,13)」(聖カシアノConferenze 3,16-17)

神は、ご自分の子どもたちをとおして偉大な業を成し遂げることを望まれ、その神秘的なご計画のために、時に私たちの信仰を厳しい試みにおかれます。それは、子どもたちを傲慢にさせないためであり、主は、彼らのうちに、すべてを思うように行うことのできるご自分への誠実な無償の信仰と完全な信頼を鍛えるため、彼らを試みに放っておかれるのです。庭でたとえるなら、艱難の中に花を咲かせる信仰のようなものです。信仰が、艱難によって折れてしまわないよう主にむかって謙遜に身をかがめ、風にもちこたえながら、花を窒息させようとする誘惑の雑草の上にのし上がって咲くのです。

アブラハムの信仰

父親・母親は、心から愛するひとり息子のいのちを救うためなら、自分たちのいのちを差し出すでしょう。しかし、もし養子のいのちを救わなければならなかったとしたら、自分たちのひとり息子のいのちを犠牲にするでしょうか。

神に対して、私たちは愛されている被造物であり、新しい創造の胎において養子となったものです。父である神は、私たちを罪と永遠の死から救うためにひとり子をお捧げになりました。それは、私たちを神の実の子どもとするためです。人間を超えた愛、神の愛は、他の子どもたちを救うため、そして全人類の救いのために御子を十字架の犠牲によってお与えになった御父に示されています。御子イエスは、この御父のみ旨を受け入れ、私たちの救いのために、十字架においてすすんでいのちをお与えになりました。そして、三日目に復活し、死と罪に打ち勝って御父の右に上られました。

「『アブラハムは神を信じた。それは彼の義とされた』と書き記されている。だから、信仰する者はアブラハムの子であることを理解せよ。聖書は神が信仰によって異邦人を義とされることを予知し、あらかじめアブラハムによい便りを告げ、『あなたにおいてすべての民は祝福される』といった。したがって、信仰者のアブラハムとともに祝福されるのは、信仰をもつ人である」(ガラツィア3,6-9)

「信仰によってアブラハムは、試されたときにイサクをささげた。彼は約束を受け、そのひとり子で、『イサクの名においておまえに子孫が起こされる』と言われたその子をささげた。アブラハムがそうしたのは、神には死者もよみがえらせることができると考えたからである。そのために彼は子を取りもどした。これは前触れにもなる」(ヘブライ11,17-19)

アブラハムは、イサクというひとり息子をもち、多くの子孫を約束されていましたが、偉大な信仰をもって神のみ旨を受け入れました。それは、神ご自身がイエス・キリストの業によって完成されたことを予示するものでした。

「では、いくつかの信仰の模範を見てみましょう。まず最初にアブラハムです。なぜなら、私たちは信仰によって彼の子どもだからです。事実、かれはその行いによってだけでなく、信仰によって聖人になりました。確かに彼はたくさんのよいわざを行いました。しかし、信じなかったなら、決して『神の友』とは呼ばれなかったでしょう。そればかりか、彼は信仰によってそれらの業を成し遂げたのです。その証拠に信仰によって、父親や故郷、土地や家を捨てました。だから、彼が義とされたように、あなたもそうなるように。(・・・)彼は、子をもうけるには年をとっていましたし、妻のサラも同様でした。(・・・)しかし、神は彼に息子が生まれることを告げ、彼は神を信じることをやめませんでした。(・・・)息子を得た後、神は、アブラハムにその子を捧げるように命じました。『イサクによって子孫が増えることを』約束されていたにもかかわらず、彼はひとり息子を神に捧げました。彼は、神が『その子を死から生きかえらせることができる』と知っていたからです。(・・・)彼は、自らの意志で息子を捧げ、神のみ旨によって、息子の代わりに雄ヤギが与えられ、彼は生きた息子を取り戻しました。(・・・)彼は忠実であったため、これによって、(信仰のしるしである)割礼と多くの人の父となるべく約束を受けました。(・・・)彼の信仰は、私たちの信仰の象徴であり、この信仰によって私たちは彼の子どもであるのです」(エルサレムの聖チリロCat 5,1-11)

それゆえ、私たちはこの信仰の類似によって、アブラハムの子どもなのです。衰えた年寄りが子どもをもうけるのは人間には不可能であるように、死人を生き返らせることなど人間には不可能なことです。彼は、子どもをもつことができなかったのに、自分の意志を捧げ、信じたために子を得ました。そして、私たちも、このように復活されたイエスを信じ、人間には不可能にみえる私たちの復活の実現を信じています。だから、私たちは、アブラハムの子どもといえるのです。私たちの救いのための供物である雄ヤギは、私たちの永遠のいのちの代償として捧げられたイエスを象徴しています。しかしまた、雄ヤギは、罪と罪をけしかけるものも象徴しています。私たちに愛といのちを与えるために憎しみと死を飲み下されたイエスの愛の力によって、それらは永遠に十字架に釘づけられたからです。

使徒聖ペトロの信仰

ペトロの信仰は、イエス・キリストの恩恵によって私たちのために岩となりました。私たちカトリック信者にとって、教会とは主の家にいるようなものです。「神の家」は、ペトロの信仰、つまりイエスのみことばとペルソナを信じるイエスへの信仰の岩の上に建てられています。私たちは、使徒ペトロのようにイエスを信じることによって、神の力に希望を置いています。ですから実際は、イエスご自身が私たちの信仰の岩なのです。

「イエスが『ところで、あなたたちは私をだれだと思うのか』と言われると、シモン・ペトロが『あなたはキリスト、生ける神の子です』と答えた。イエスは、『シモン・バルヨナ、あなたは幸いな人だ。その啓示は血肉からのものではなくて、天にまします父からでたものである。私はいう。あなたはペトロである。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門もこれに勝てぬ。私はあなたに天のかぎを与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる』と言われた」(マテオ16,15-19)

ですから、カトリック教会の中では、神の力が働いており、私たちのうちに御父のみ旨が行われるように、聖霊をとおしてイエスご自身が働いておられるのです。御父のみ旨とは、「すべてのものをキリストのうちに集めること」です。聖ペトロが初代のキリスト者たちにどのように書いていたかを読んでみましょう。

「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシメオン・ペトロより、私たちの神および救世主イエス・キリストの義によって同じ尊い信仰を受けた人々に。神と主イエスを深く知ることによる豊かな恩寵と平和があなたたちの上に。キリストの神としての力は、ご自分の光栄と勢力をもって召されたお方を私たちに知らせることによって、いのちと敬虔を助けるすべてのものをくださり、また、それによって私たちに尊い偉大な約束を与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、神の本性にあずからせるためであった。だから、あなたたちの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、敬虔に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えるように大いに務めよ。もしそれらの徳があなたたちの中に豊かにあるなら、私たちの主イエス・キリストを知ることについても怠りないであろうし、また実を結ばぬこともないであろう」(2ペトロ1,1-8)

私たちは、信仰と愛によって神のいのちにあずかるよう呼ばれています。ただの信仰ではなく、具体的に生きた信仰、日常生活の中で実践された信仰によってです。このような信仰は、イエス、聖母、兄弟たちのために、愛に生きる私たちの生き方、よい習慣となります。

「もし私たちが、この信仰を保つなら、罪の判決から解かれ、あらゆる徳で身を飾るでしょう。人が海の上を歩き、立っていられるほどの信仰。ペトロは私たちと同じ人間でした。(・・・)しかし、彼に「来なさい!」といわれた主を信じたことによって、体の重みは信仰の敏捷さに支えられ、水の上を歩き始めました。しかし、信じた時は歩いていたのに、疑った時に沈み始めました。(・・・)<常に霊魂を再び起すことに気を配っておられる>イエスは、彼が必要としているのをご覧になり、いわれました。「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」。イエスが彼を右手でしっかりと捕まえたので、彼は再び勇気と信頼を取り戻しました。そしてまた新たに信じた時から、主のみ手に支えられて再び水の上を歩き出したのです。信仰の力はなんと偉大でしょう。信じた本人が救われるだけではなく、一人の信仰は、他の多くの人を救うことができるのです」(エルサレムの聖チリロCat 5,1-11)

信仰をもって行うとは、私たちの力、私たちのいのちへの理解を超えて、主が働かれるということを信じることです。霊魂の救いのために、私たちの信仰を証ししながら、他の多くの人たちに、主と出会う道を開くこと。これが、私たちカトリック信者の生きる意味です。

信仰をもたない人々

信仰は、神の賜物であり、また人が信じることを望む意志の表明でもあります。すべての人が信じることを望んでいるわけではありません。しかし、信仰をもたない人たちも、どのようであれ何かを信じているのです。それはお金の力であったり、愛する人であったり、政党やイデオロギー、科学的モデル、また存在を照らすことのできる唯一の基準としての理性や自分自身などです。中には、自分は全く何も信じていないと確信をもっている人もいますが、彼らはそれによって、てこでも動かない信条をもっているといえるのです。イエスへの信仰に決してたどり着くことができないこともあれば、信仰をもっていてもそれを失うこともあります。ここで、信者として、信じない人や信仰を失った人たちについて考えたいと思います。信者は、ある時は対話、ある時は緊張関係を生むなかで、信じない人と絶え間なく比較し合います。

「『もしあなたがキリストなら私たちにそういいなさい』イエスは彼らに言われた、『そういったとしても、あなたたちは信じない。また私が尋ねてもあなたたちは答えまい』」(ルカ22,67-68)

「人々にこれらのことを思い出させ、聞く人の滅びとなるだけの無益な口論をするなと神のみ前で命令せよ。あなたは認められた者、恥じるところのない働き人、真理のことばの正しい教師として神のみ前に励め。(・・・)愚かな不秩序な議論から争いが起こることを知ってそれを避けよ。主の奴隷は争ってはならない。むしろ、それはだれに対してもやさしい人であり、他人に教えることのできる人であり、試練にあたって辛抱強い人である。彼は反対する人を柔和に説かねばならない。神が真理を悟らせるために、彼らに悔い改めさせるなら、彼らはいったんは悪魔の思いのままにとりこになっても、そのわなを逃れて健全な思想を取もどすであろう」(2ティモテオ2,14-15 23-26)

ことばの力で、相手を信じさせることはできません。その人が聞く準備ができていない時、また、あなたのことばや誠実さ、証言を信じていない時は、特にそうです。なぜなら、その人は、信じることではなく、信じている人をじゃましたり挑発することに興味があるか、または、ただ単純に話しの内容に関心がないからです。

「(・・・)肉の人はみな、見えない現実を体験によって知ることができないため、肉眼で見ることのできない現実の存在を疑うのである。(・・・)それは、まるで、妊婦が牢獄に閉じ込められているようである。彼女はそこで息子を生み、育て、教育する。母親は、太陽や月、星、山や草原、空を飛ぶ鳥たち、駆けまわる馬たちについて話して聞かせる。しかし、牢獄の暗やみの他に何も知らない息子は、たとえ存在するすべてのことを聞いても、体験によって知らないために、それらの本当の存在を信じない。このように、人間は、この流刑の地の盲目の中に生まれたため、至高の財産や見えないものについて聞く時、その本当の存在を信じない。自分たちの生まれたこのあわれな見える現実だけを直に知っているからである。だからこそ、御父のひとり子、これら見えるもの見えないものの創造者ご自身が到来された。全人類のあがないのためにこの世に来られ、私たちの心に聖霊を送られた。それは、彼によって、私たちが新たないのちを受け、経験上知り得ないことを信じるようになるためである。(・・・)私たちは、この見えない現実のいのちを疑ってはいないが、この確信に揺るぎない者はまだ誰もいない。だから、いうまでもなく、私たちは、自分より優れた者たちのことばを信じ、聖霊の賜物によってすでにこの見えない現実を体験している者たちを信じるほかないのである」(聖大グレゴリオDialoghi 4,1)

天国や永遠に存在するものとは、目には見えないけれど香っている庭園のようなものです。たとえまだ見ることができなくでも、信仰によって霊魂の感覚でそれを感じることができます。この神の愛の「香り」は、信仰をとおして私たちの心に充満し、無駄なことばなしに、私たちの周りの人や、この心地よい香りの源を信じない人、見ていない人たちの心にも伝わるのです。

信仰をもつ人は同じ神を信じているのか

唯一の神を信じると断言することは、一信教の信者といわれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教という諸宗教の共通の財産です。これらの宗教の内部には、個々に、本質的な観点においても異なるさまざまな流れがあります。また、これらの宗教のかたわらには、自立した世俗主義社会の構築への妨害として、宗教を拒否する理性信仰もあります。現代文化、特にヨーロッパの文化に浸透している根底の思想は、社会の世俗主義の特性を傷つけることのない「表現の自由」を残しておきながら、こっそりと宗教を追いやることです。分裂が少なく、より安定していてコントロール可能で、目立ち過ぎることなく、不安定な宗教紛争の危険のない唯一の宗教が好ましいのでしょう。この複雑な背景において、宗教間の対話は、人類の善のために必要であり、支持されるべきものです。しかし、神を信じる人は、神のおきてと見なす(考える信じる)宗教的・道徳的な法に従って、道徳的、社会的な生き方をしています。諸宗教間のおきては、時に和解し、またある時は、神からくるものだと宣言しながらも、それらの間で対抗します。ユダヤ教とキリスト教の間には、連続と断絶があります。(ユダヤ人のイエスは、キリスト者にとっては、神の御子であり、旧約聖書で預言者たちによって告げられたメシア(救い主)ですが、ユダヤ人にとってはそうではないのです)しかし、キリスト教とイスラム教の間には、その内容と文化に大きな差異があり、多くの場合相いれないものです。この前提は、私たちが、「どの宗教もみな同じ神を信じているのだから同じである」という間違った断定を見抜くために重要です。このような主張は、信じていない人の文化的暗示であり、弱い信者やうわべだけの信者をそそのかすものです。そして、もちろんこうした混同は宗教間の対話の助けになるものではありません。対話の前に大切なことは、自己のアデンティティー、つまりキリストに対する信仰を明確にすることです。

「キリストにおいては、、神性の満ち満ちたものがすべて体の形をとって宿っている。あなたたちは、権勢と能力のかしらであるキリストにおいて満たされた。」(コロサイ2,9-10)

「み子を信じる人はさばかれぬが、信じぬ者は、神の御ひとり子の名を信じなかったがために、すでにさばかれている。審判というのは次のようなことである。光は世に来たが、人々はその悪い行いのために、光よりもやみを好んだ。」(ヨハネ3,18-19)

「神は、何度もいろいろな方法で、その昔預言者を通じで先祖に語られたが、この終わりの日々には、子を万物の世継ぎと定め、また、よってもって万物を創られたその子を通じて語られた。神の栄光の輝き、神の本性の型である子は、その勢力あるみことばによって宇宙を保ち、罪の清めを行って、高き所にある神の威光の座の右に座られた。み子は天使の名にはるかに勝る名を受けられ、天使よりはるかに勝る者となられた」(ヘブライ1,1-4)

対話の主題は、宗教の平和的共生と宗教の自由を守ることです。信仰の内容は、対話の主題ではなく、信仰の手形です。教父たちは、福音を説き、信仰を守っていました。今日考えられている対話は、教父たちの教えの土台を見いだしません。第二バチカン公会議は、この論題に取り組みました。「信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humane」と「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」は、すべてのキリスト信者が知っているべきものです。

信仰の証聖者とは

信仰を表明するキリスト者は「信者」と呼ばれていますが、生活のなかで信仰を表す事情はさまざまです。教会の中でクレドを唱えながら信仰を表明するのは容易なことです。しかし、キリスト教的環境の外で、しばしば疎外され物笑いにされるにもかかわらず、イエス・キリストへの信仰をみんなの前で告白するというのは、全く別のことです。驚くべきことではありませんが、信仰の初めの証聖者となったのは、まさに私たちの主でした。主はそのために死の判決を受けたのです。

「大祭司はまた、『おまえはキリストか、祝されたものの子か』と尋ねた。イエスは、『そのとおりである。あなたたちは人の子が力あるものの右に座し、天の雲に乗り来るのを見る』と言われた。」(マルコ14,61-62)

信仰は、確かに心の中で表明されるものです。しかしまた、大きな者小さな者、富んだ者貧しい者、友や敵の前で口で公に告白されるべきものです。

「あなたが自分の口で、イエスは主であるといい、心の中で神がイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。人は心で信じて義とせられ、ことばで宣言して救いを受けるからである。」(ローマ10,9-10)

完全な信者とは、信仰を表す証聖者です!平凡な信仰生活を目標とすることをキリスト者であると考えるべきではありません。さもないと、「人々の前で私を否む者を、私もまた天にいます父の前で否む」(マテオ10,33)、といわれることになるでしょうから。

私たちがこれまで読んできた教父たちは、信仰の偉大な証聖者たちです。時を超えて今でも私たちに新しい証しを与えています。また、教会が認め、信頼して祈願するすべての聖人たちも、信仰の真の証聖者です。しかし、私たちは、すべてのキリスト信者が、各自の洗礼の完成に呼ばれていることを忘れてはいけません。洗礼の完成とは、第二バチカン公会議『教会憲章Lumen Gentium 11、42』が教えるとおり、聖性です。これは、この終わりの時、私たちが生きているこの極端な時代に、特に緊急に知らされるべき証言です。

「それから小羊が第五の封印を切ったとき、私は神のみことばのために、またそれを証明したために殺された人々の霊魂を祭壇の下に見た」(黙示録6,9)

この時代、勇ましい堅固さをもって信仰のうちにしっかり立ち、カトリック教会と聖なる教父、教会博士たちとの一致のうちに、真の教えに従順であることが必要です。

「教えにかなう真実のことばをしっかり守る人でなければならない。これは健全な教えを勧め、反対者をいい伏せるためである。特に(・・・)服従せず、むなしいことを語り、人を惑わす者が多いから、彼らの口を閉じさせよ。彼らは汚れた利のために、教えてはならぬことを教え、家々をくつがえすのである。(・・・)だから彼らを厳しくとがめよ。彼らの信仰を健全にさせ、ユダヤ人の作り話と、真理を離れた人々のおきてに耳を傾けさせるな。(・・・)彼らは神を知っているというが、その行いによって神を否定している。彼らはいとわしい者、逆らう者、いっさいよいことのできぬ者である」(ティト1,9-16)

永遠のいのちを得るであろう死の時まで、忠実な信仰の証聖者であり続けましょう。「私は、すべてを生かす神のみ前で、また、ポンシオ・ピラトの時よい宣言をされたキリスト・イエスのみ前で、あなたに命令する。主イエス・キリストの現れまで、あなたは汚れなく、とがなく、おきてを守れ」(1ティモテオ6,13)。